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第43話 おやすみ、黒猫
もう、十二時を過ぎてしまった。
ベッドの脇に腰を下ろしてどこかを見ている久瀬さんの肩ごしに時計を見て、そして、チャンスは潰えていると確認した。
十二時に駅に行かないといけなかった。じゃないと、久瀬さんの邪魔になる。この人は一生懸命小説を書いていただけなのに。それを盗まれてしまった被害者なのに、全然、一つも悪くないのに、利益しか、自分のことしか考えていない人間のせいで、その執筆を邪魔されてしまう。
俺は愛する人を守るチャンスを自分から逃がした。
もう、いない。あぁいう人種は追いすがることを嫌うから、きっと、じゃあもういらない、好きにしたらいいと、別の、自分を求めて、崇拝する誰かを選んだと思う。欲しいと思ったものが、手に入らないのなら、別の欲しいもので代用する。替えがいくらでも利くんだ。心底、泣き叫んででも欲しいと思ったものなんて、あの人たちにはないから、どんなことになろうとも手を伸ばすなんてことはしない。
だから、今から、やっぱりあなたのものなりたいと言ったところで、笑いながら、「もう遅いよ」って追い返されるだろう。
俺は、愛してる人を守りたかったのに。
愛してる人に愛されていたいって、願ってしまった。
「久瀬さん、俺」
「もう少し寝てろ」
「違うんだっ、あの、俺の、家のことっ」
盗作のこと、を――。
「知ってる」
「!」
知ってるって、知ってるって、何を? あんなひどいことを知ってたって、そんなわけ。
「なぁ、クロ」
俺の頭を撫でてくれるこの人を、俺は守れなかったんだ。そのことを謝ろうと起き上がった俺に寝ていろって、大きな手が優しく肩を押して、ベッドに押し戻す。
なんで? なんでそんな優しいの? 貴方は、俺の正体を、本名を知っていた。
それでも、今も、クロって呼んでくれるの?
「俺は、この長い髪が嫌いだった」
「……久瀬さん?」
少し悲しそうに笑って、俺の嫌いな母親そっくりの、いや、あの人よりも鮮やかな色で父に気に入られていた。その目を隠すために長くしていた前髪をかき上げてしまう。そして、金色の瞳で貴方を見つめる俺に微笑んだ。
「長くしてんのは、女性の気持ちがわかるようにって、思ったんだ」
さりげない仕草、たとえばどんな時に邪魔に感じるのか。どう首を傾げると頬に髪が触れるのか。些細なところだけれど、読者の大半であろう女性が共感できる文章を――と、思って、伸ばしていたと穏やかなで、でも寂しそうに話してくれた。
「そんなことしなくたって秀逸な文章を、作品を書ける作家はいくらでもいる。俺にはそこまでの才能なんてないよ。それでも、何かひとつでも自分の作品にプラスになるのならって、思ってな。ダサいだろ?」
ダサくないよ。そんなの全然。ちっとも。
「けど、お前が好きって言ってくれた」
「……」
「心底嬉しかったよ」
だって、好きだったんだ。貴方の髪が何かの拍子に俺に触れるととても気持ち良くて、心地良くて。
「お前が俺のみすぼらしいところも、かっこ悪いところも全部認めてくれた気がした」
「……」
「必死にもがいて、作家っていうものにしがみつく俺を全部丸ごと許容してくれた気がした」
久瀬さんの大きな手が俺の頬を撫でて、前かがみになったこの人の額が額に触れる。長い髪は束ねていなかったから、キスするほどの近さに来た時、首筋に、頬に、その髪が触れて、くすぐったくも甘い気持ちにさせてくれる。
貴方といる時にだけ溢れる感情に、自然と涙が零れ落ちそうになるんだ。
違うんだ。
それは俺だよ。ねぇ、久瀬さん。俺が丸ごと貴方に許容してもらってるんだ。貴方が俺をまるごと認めてくれたんだ。呼吸の仕方を、ゆっくり眠れる方法を、笑いながら食事をする方法を、教えてくれた。
「お前が俺を幸せにしてくれたんだよ」
ねぇ、それは、俺だよ。
「なぁ」
「……」
「お前は、クロだ」
「っ」
額から伝わる貴方の体温はやっぱり俺より少し高くて、じんわりと手足があったまっていくのを感じた。
「いい、の? ねぇ、久瀬さんっ、俺っ、このまま黒猫でいていいの?」
「あぁ、いてくれ」
「けどっ」
「お前は俺の黒猫だろ?」
本当に? 本当に、それでいいの?
「少し寝ろ」
「っやだ、なんか、あんたが」
「大丈夫、少しだけ出てくる」
「!」
額にキスをされた。飼い猫を溺愛する主のくれた、おやすみの挨拶。
「寝るまでこうしててやる」
じゃあ、俺が寝なければ、あんたはどこにも行けないんだ。それなら……。
「それで寝ないでお前が起きてると、俺はいつまでも明日、っつっても今日だな。朝食のパンを買いに行けないわけだ」
そんな優しい声で、大きな掌で、俺の頭を撫でるの反則だ。だって、これじゃ、俺は寝てしまう。
「卵もハムもあるのに、パンがないんじゃなぁ。かといって、納豆はないんだ。米はあるけど、納豆がないのも微妙だろ? だから、少し寝てろ」
やだ、そしたら、貴方が――。
「クロは留守番だ」
あぁ、そっか。
猫はおとなしく主の帰りを待ってないと、だ。
「おやすみ」
貴方の帰りをベッドの中で、丸まって、待ってるんだ。そして、貴方が帰ってきた後にその足元に擦り寄って甘えよう。寂しかったんだって、甘えたいから、ほら、早くこの頭を、喉を、撫でてくれって、すればいい。
久しぶりなきがした。出て行かなくてはと自分に言い聞かせることなく、ただただ安堵しながら目を閉じたのは。
「おやすみ、クロ」
目を覚ますと、久瀬さんはいなかった。
「……久瀬さん?」
あの人のチャコールグレーのコートがなくなっていた。そして。
「……これ」
ベッドの上、俺の脇に、一冊の本が置いてあった。
知らない表紙で、新書だから分厚くて大きくて、手に取ると少し重たい。いつも電子で小説を読んでいた俺はその重さにちょっと戸惑う。
作者は、久瀬成彦。タイトルは――。
『あぁ、愛しの黒猫』
そう書いてあった。
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