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第44話 大切な言葉たち
彼女は、彼のことがずっと好きだった。
彼女はとても綺麗な黒い髪を耳にかけ、チラリと彼のことを伺う。
悪そうな友だちの輪の中にいてもなお誰にもなつかない野良猫のような彼のことが気になって気になって、たまらなかった。彼は優しい人だと思っていた。瞳が違うのだ。友だちにも、他の誰にもない温かいものを持っていて、笑うと、こちらの心がほどけていくような柔らかさがある。話しかけてみたいと、ずっと思っていた。けれど、周りを囲む同級生たちが少し怖くて、躊躇ってしまう。
だから、彼を見つけた時、慌ててしまった。たった一人、グラウンドに血混じりの唾を吐いては、爪先で蹴った砂利でそれを隠すところを見つけて。
――痛く、ないですか?
痛いに決ってるじゃない。バカ。そう自分に自分で落胆しつつ。急がなければ、友だちが来て彼を囲んでしまうから。
彼はいきなり話しかけられて、びっくりしていた。
それはそうだろう。自分のような地味で、物静かな生徒のことなど知りもしないはずだから。もしかしたら、同じクラスだということすら認識してもらえていないかもしれない。
でも、もう話しかけてしまった。
ドキドキしたけれど。
とても緊張したけれど。
もっと話をしてみたい、そんな気持ちが彼女を突き動かす。普段なら、絶対にそんなことできやしないのに。慌ててカバンの中から出して渡した絆創膏。緊張のあまり手渡す指が震えてしまったけれど。
でも、話せた。
やっぱり彼は怖い人ではないと思う。
やった! 少し話してしまった!
そう、ひとり胸を躍らせていた。そんな自分を誇りながら、帰ろうと思った時――。
――な、なぁっ!
驚いた。飛び上がって、心臓が口からポーンと飛び出てしまうかもしれないと思うほど。
――いつも、何、読んでんの?
憧れていた、横目でちらちらと伺うしかできなかった彼の真っ直ぐな眼差しに、驚いて、そして、たまらなく嬉しくなった。
けれど、答えに困ってしまう。
あまり覚えていないのだ。背後にいる彼のことが気になって気になって、読書どころではなくなってしまう。
本などなんでもいいのだ。本の内容まで意識を傾けられないほど、彼のことを気にかけていたのだ。
だから、答えに困ってしまったけれど。
――あのさっ、ちょっと待ってて。
彼は答えを待つこともなく、そういうと走って行ってしまう。ぽかんとしつつ、待っていてといわれた彼女は待っていた。なんだろうと、ドキドキしながら。
息を切らせて、自分のあげた絆創膏を唇の端に張った彼の手にはオレンジジュースの紙パック。
――絆創膏のお礼。
たかが絆創膏一枚のお礼としては高すぎる。けれど、嬉しかった。嬉しくて、笑って、真っ赤な頬をした彼も笑って、そして、恋が始まった。
初めての恋だった。
彼女は泣き叫んででも、手を離したくないと思った恋を。
彼はどんなものからでも彼女を守るとがむしゃらに戦った恋を。
二人は、まだ高校生だった。ともに成長し、大人になり、痛みも悲しみも、全てをそこに刻んで、たくさんの傷を刻んで、少し歪な形になった恋を二人で抱きしめながら。
本一冊分の、ラブレターだ。
彼は、彼女は、俺。
窓際にいたのは、久瀬さんを見つめる俺だ。
誰にも懐かないと警戒心むき出しにしていたのは俺。
「っ久瀬さん」
久瀬さんが書いた、恋文。
「久瀬さんっ」
ずっと執筆作業をしていたのは知ってる。何を書いてるのかまでは、あの人が話さないから訊くことはなかった。
それがシナリオでも、小説でも、貴方の綴った言葉は一つ残らず味わうつもりでいたから、気にしていなかった。
いつか、って楽しみにしていたんだ。
「っ」
涙が止まらなくて、自分の膝をぎゅっと抱えながら噛み締めていた。
あの背中が綴っていたのがこの小説なんだって思うと、たまらなくなった。
「久瀬さんっ」
涙が溢れて止まらなくて、しゃくりあげながら、久瀬さんのことを呼んでる。
ねぇ、久瀬さん。
『彼は笑って言った。――なぁ! 俺、お前のこと、大好きだ。ずっとずっと、変わらない。何があっても、変わらない。だから、お前と一緒にいる未来を選ぶよ! そう言って、歩き出す。一歩、また、一歩、前へ、彼女を迎えに行くために』
本一冊分のラブレターは俺なんかには贅沢すぎるよ。
『彼女は静かに言った。――私は、彼との未来を選ぶ。彼がいない未来はいらない。何があっても、どんなことが起きても、私は彼と生きていく。そう言って、彼のところへ歩いていく。早く、彼を見つけなければ、早く、自分の未来を抱きしめなければと』
久瀬さんがくれた、この恋文に。
「そんなに泣いて、お前、昨日も今日も、じゃ、干からびるぞ」
贅沢者の俺は涙が止まらなくて。
「久瀬っ、さ」
「っと、お前、体当たりすんなよ」
帰ってきてコートもまだ脱いでいない久瀬さんにしがみつくと笑ってた。笑って、頭を撫でてくれる。
優しく、丁寧に、なんてしなくていいよ。俺は必死になって、しがみついて、抱きしめた。
「読んだか? クロ」
コートなんて後でにして。
「それ、俺の新作」
涙でぐちゃぐちゃの俺にもかまわないで。
「クロ」
「読んだ」
俺の欲しいものをすぐにわかってしまう貴方は笑いながら、深く、濃く、口の中を蹂躙してくれる。
「そっか」
「パン、買ってきたの?」
「あぁ」
愛してるって。たくさん書いてくれたの読んだよ。嬉しくて、涙が溢れて止まらなかった。貴方の言葉は俺にとって宝なんだ。その宝で綴られた愛を全部、俺にくれるなんてさ。俺は――。
「それと、お前の実家に行ってきた」
「…………え?」
「あの小説、全部、渡してきたよ」
ねぇ、今、なんて。
「デビュー前の、原稿データ全部」
貴方の綴った言葉は全て、宝物。
「渡してきた」
今、俺の聞き間違えでないのなら、貴方は――。
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