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第45話 守りたいもの

「デビュー前の、原稿データ全部、渡してきた」  貴方の綴った言葉は全て、宝物。今、俺の聞き間違えでないのなら、貴方は――。 「……久瀬、さん?」 「なんて顔してんだ」  だって、今、貴方が。 「なぁ、クロ」 「……」 「お前さ」  俺の黒髪をくしゃくしゃにして、笑ってないでよ。貴方は今何よりも大事な宝物を失くしてしまったって、言ったんだよ? ねぇ。 「ちょいちょい、お前ばっかが好き、みたいに思ってんだろ。なぁ」  笑って、覗き込んで、俺の泣き顔に困った顔してないで。 「デートで遊園地行った時、俺だってもっと一緒にいたいって思ったっつっただろ」 「っ」  買い物に行って、主婦にバイトの学生に、あっちこっちで虜にしちまうお前に気が気じゃないんだからなって、泣いている俺の頭を抱きしめて、そっと教えてくれる。ヤキモチなんて、いい年した大人が笑っちまうって。  優しい穏やかな溜め息を零して、少し苦しいくらいに抱きしめてくれる。  まるで、宝物だ。俺を宝物みたいに大事に、大切に、離れてしまわないようにしっかりとその手で掴んでくれる。 「俺はお前を大事にしたいんだよ」 「っ」 「俺にとって、小説はさ、かけがえのないものだった。すごく大事にしてる。書くことも、その書いて綴った一文も、それを集めて繋げた本も、全部、俺にとっては大事なものだ」  知ってるよ。だって、久瀬さんの小説は温かい。まるで生きてるみたいに、読んでると、その言葉に触れてると温かいんだ。 「クロ」  貴方の体温を感じる。 「それと同じくらいお前が大事なんだ」 「っ」 「だから、お前を守れるのなら、お前を、誰にも渡さずに済むのなら」  優しい人だからとても好きになった。優しくて温かいこの人の懐に入りたかったから、その代わりに全部を捨てた。そして、貴方の懐に入れてもらったら、もう出たくなくなってしまった。強くて、熱くて、苦しいさすら愛しくてさ。 「クロ」  貴方にそう呼んでもらえる度に、指先からじんわり熱が生まれていったんだ。冷たくてかじかんで、痛かった指先がさ、温まっていった。幸せとか嬉しいとか、そういうのをたくさん「クロ」になってから感じたんだ。 「クロ」 「!」 「俺は、きっとお前が思っている以上にお前のことが好きだよ」  嬉しい、だけじゃない、切ないも、苦しいも、あと、強くなりたいと思う気持ちも、貴方がくれたんだ。 「よく泣くなぁ、お前は」 「だって、っ」  泣かせたのは貴方だ。  しゃくりあげてしまうほど、泣かせたのは、久瀬さんじゃん。  二十二歳の男が子どもみたいに泣きじゃくってる。恥ずかしくて俯くと、その腕の中に閉じ込めてくれた。 「最初は表情も硬くてな」 「っ」 「感情を表にひとつも出そうとしないくせに、どこか寂しそうで、ほっとけなかったんだ。あんな寒い中、あんな格好でさ。けど、覚えてるか? 目玉焼き」  覚えてるよって小さく頷いた。全部、貴方がくれたもの全部ひとつひとつ覚えてるに決ってる。 「あの時、びっくりした顔をしてた。その次に笑った顔も見れた。西向きのうちじゃ乾かない厚手の洗濯物に難しい顔もしてたっけ」  だって、本当に乾かないんだ。もう慣れたもので、この時間帯までに干さなくちゃとかさ、わかるようになったよ。今日は、貴方の新作に夢中だったから夕方に取り込んでもまだ乾いてないと思う。 「全部が顔に出るようになった」 「っ」 「もうその頃にはメロメロだ」  夕方になっても、明日になっても、ここにいて、いいの? 「愛してるよ」 「っ」 「だから、ずっと一緒にいてくれ」  言葉をたくみに使える恋愛小説家、そんな貴方がくれた告白は飾りっ気のないとてもシンプルなものだった。 「クロ」  額を触れ合わせて、名前を呼んでくれた。  そして、また、俺の幸せと嬉しいと恋しいと、温かいものが零れるくらいたくさん溢れていく。 「……はい」  丁寧にそう答えると、貴方は嬉しそうに笑って、俺の金色をした瞳にそっと優しくキスをして、涙に唇を濡らしてた。 「それにしても、すげぇ家だったな」  朝食は遅くなってしまったから、昼食も兼ねて。買ってきてくれたパンとソーセージにコーヒーと野菜スープ。 「お前のうち」  そんなことない。俺にとって、あそこは。 「まぁ、お前の兄貴たちはどうかと思うが。でも、お前のお母さんはお前を守りたかったんだろうな。自分を丸ごと使ってでも」  母は……どうだったんだろう。俺か監獄で育てられたような気持ちでいたけれど、でも、あの人は一度も俯かなかった。それどころか背筋を伸ばし、誰に何を言われても鼻で笑ってしまうような人だった。 「親父さんと話したよ」 「!」  兄、だけだと思っていた。父はとても多忙な人だから。 「ご子息、櫻宮稜さんのことでお話したいことがあるって言ったら、少しだが時間を作ってくれた。色々はなしたよ。お前が自分の意思で俺のところにいること。小説のことももちろん。一応、こっちはカードを全てやるから、引き換えにお前をって、取引地味てて、あれなんだが。そんな話をした。そんでな……」 「……」 「まぁ、ぶっちゃけ」 「……」 「お前がお母さん似でよかったよ」  久瀬さんが父と、話をしたなんて。 「って、ここ笑うとこだったんだけど?」 「!」 「どうにもならないことはある。もう戻れないものもある」  父はそう、だってこと? 戻れない、どうにもならない? 「抱えてるものがあるんだ。誰にでも。家、歴史、従業員、事業、そういうもの全部を守らないといけない人間もいれば、自分の地位だけを守りたい人間、自分の子どもだけを守りたい人間も」 「……」  記憶の中の父はいつも難しい顔をしていた。決して良い人ではなかった。優しい人なんかでもない。ただ無口で、怖くて、口を開けば仕事のことばかりの人。兄には兄の、母には母の、欲しいものが、守りたいものがあった? 「俺の守りたいものはうちで飼ってる猫一匹」 「!」 「人それぞれだ」  照れくさくて、切なくて、猫一匹と笑う貴方が恋しくて、俯くと追いかけるように覗き込んで、泣きすぎで腫れぼったく赤い目元に手で触れる。 「ひどい、顔してるでしょ」 「いいや」 「ひどいって」 「可愛いよ」 「っ」  本当にひどいんだ。ヒリヒリしてるし。なんか瞼も腫れてるせいか重たいしさ。だからきっと普段以上にブスで笑ってしまうほどにひどい有様だろうけど。 「可愛い……」 「っ」 「もう、あとはないからな」 「?」 「お前の親からも了解得てんだ」 「そ、それは! 向こうにしてみたら、いらないからって」 「俺は、いる」  使えないから、どうぞってだけのことで、了解とかそんなんじゃ。 「俺には、お前が、いるんだよ」 「っ」 「覚悟しとけ。これからたっぷり甘やかしてやる」  もう充分、甘やかされてる。溶けそうなくらいに、ずっと貴方に溺愛されてる。けど、貴方もわかってないんだ。俺も、貴方のこと、甘やかして、溺愛したいんだって。だから、教えてあげないと、抱きしめて、そっとその耳元に。 「俺も、守りたい人がいるんだ」  何に代えても、自分丸ごと使ってでも、この腕で、身体で、全てで守りたい人が、世界でひとりだけ。今、この腕に抱きしめた、たった一人のその人を。 「俺の、ご主人様」

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