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第46話 ほろほろ酔い
身分証になりそうなものは久瀬さんが櫻宮から預かってきてくれた。
だから、俺は対外的には櫻宮の姓を名乗ってスマホでもなんでも買えるけれど、スマホは持ってない。
生活は何も変わらず。
俺は、あの人の飼い猫、クロでいる。
あの日以来、櫻宮の家から連絡らしいものはひとつも来ていない。
お互いに、これが一番良いと思う。
どんな思いが背後にそれぞれあっても、事実として、俺はあの家に帰りたいとはやはり思えないし、向こうにしても、俺はやはり不要だろう。ただ、一つだけ、父から手紙が届いた。直筆の手紙だった。あの人が筆を取るなんて滅多にない。そもそも手紙なんて大概秘書の人がやっているだろうから。口頭で指示を出すだけだと思う。
四角く、力強く、そしてどこか威圧感のある文字で、櫻宮家は今後一切、久瀬成彦に関わらないことを約束すると、正式の書面で送ってきた。
兄の失脚を狙っている人たちのその後は知らない。櫻宮家のことも何も知らない。でも、それでいい。
「クロ」
俺は、クロだから。
「肉焼けたぞ」
「ねぇ、久瀬さん」
「あ? カルビ、食うか?」
「じゃなくてっ!」
少し小さな声で話しかけると周囲の声で聞こえなくなるから、身体を前に倒した。でも、倒すと今度は二人の間にある火鉢が熱くて、熱風に思わずしかめっ面になる。
「ここ、高くない?」
「なんでだよ。いいんだよ」
だって、焼き肉屋なら、歩いて十五分のところにファミリー向けのところがあるじゃん。食べ放題で九十分。あそこでも普段の外食よりはずっと高くつく。けど、ここ、そういう焼き肉じゃない。
「お前の初飲酒記念だ」
「いいってば、そんなの」
「俺がしたいんだよ」
楽しそうに笑って、鼻歌交じりに、次のオーダーは何にしようと考えている。
「元気な二十二歳の成人男性、たんと食え。あと、しこたま飲んどけ」
お酒は飲んだことなかった。二十歳は過ぎていたけれど、兄たちが嫌がるのが容易に想像できて、それにげんなりしてまで飲みたいとは思わなかったんだ。母の仕事は酒の相手をすることだったから。兄たちが毛嫌いしていた、母と、母の仕事。
「クロ」
「ふごっ」
「まずは、飲みやすいのにするか」
目でちょっとだけ俺を叱った。そして、鼻を摘んで鳴ったおかしな音で考えてたことを強制的に中断させた。この人にはなんでも伝わってしまうんだろう。俺の考えてること全部がわかってしまう。俺が、家のことで気持ちを沈ませかけたことだって、手に取るように。
「くせしゃんは?」
鼻を摘まれたままのおかしな話し方になった俺に、久瀬さんが笑う。
「俺はビール」
「ひゃ、っ、俺も、ビールがいい」
摘まれてた鼻先がようやく指から解放された。おかしかった? 面白かった? あんたは、またちょっとだけ笑って、摘ままれて少しばかりは高くスッとしたかもしれない鼻筋を手を伸ばし、指先でくすぐると、俺のビールを却下した。
サワーくらいにしとけって、レモンとかグレープとか。とにかく柑橘系の飲みやすいのからって。
やだ、久瀬さんと同じのがいいって駄々をこねたら、口移ししてやるなんて笑ってる。
個室だからって、そんなの、絶対にしてくれないくせにさ。意外に常識人なところがあるんだから。
「あ、すみません、注文を……」
俺はレモンサワー、この人は生ビール。それと肉をたんまり頼んでくれた。
「ほら、乾杯」
「い、いいよ。乾杯なんて」
貴方が楽しそうだから、俺はくすぐったくなった。
酒なんてちっとも興味なかったのに。周囲が飲み会だって楽しそうにしてても、特に入りたいって思ったことなかった。
けど、貴方の嬉しそうな顔が俺のことをくすぐる。
「初だな」
「うん……」
「乾杯」
ジョッキとジョッキがかち合って、少し鈍い音がした。
「い、いただきます」
「あぁ」
そして、くすぐったさの中、口にした初めてのアルコールは、レモンジュースの中に、何か苦いわけでも甘いわけでも、辛くも、しょっぱくもない、今まで知らなかった味が混ざってた。
決して美味しいと思わないけど、でも、喉が熱くなるのが不思議で。
「どうだ?」
何度か見たことのある、酔っ払った久瀬さんはこういうのを感じてたんだって思ったら、ドキドキした。
何杯飲んだっけ? 足元がふわふわする。駅のホームにいる自覚はある。あと、五分したら電車がくる。指先は……少し感覚が鈍い気がする。それと――。
「ほら、クロ」
「うん」
それと、酔っ払うと貴方より体温が高くなれると、繋いだ手で気がついた。
「クロ?」
笑っている俺が不思議らしい。具合悪いか? って、お会計を済ませた辺りから、これで七回目だ。尋ねられて、七回同じ返事をした。
「大丈夫」
「……本当に酒飲んだの初めてだったんだな」
「うん。初めてだよ」
「二十二歳で、彼女、いたことあっただろ?」
そこで、返答に困ってしまった。だって、俺は同性愛者じゃなくて、けど、久瀬さんはそうで。クロになる前の俺は、今ここにいる俺とは違ってる。口を開いてなんでもいいから言おうとしたら、手袋をした大きな手がわしゃわしゃと酔っ払ってふらつく頭を撫でた。
「バカ、気にしてないよ」
「……」
「その面で、その経歴に、あの家で、女がほうっておかないだろ」
「でも!」
大きな声になってしまった。この時間帯、電車のホームには酔っ払ってる人もあっちこっちにいるから、そう目立ちはしなかったけれど。
「でも、初めてだよ」
「……クロ?」
「こんなふうに思ったのは久瀬さんが初めてだよ」
酔っ払うと、お酒を飲むと、足元がフラつく。指先は少し鈍くて、貴方が掴んでいてくれないと少し危なっかしい。
あと、少し体温は上がる。
「貴方が俺の初めてを全部もらってくれた」
そして、酔うと、いつもよりも貴方ののことが好きだと言いたくなるんだね。
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