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第49話 生き生きと慌しく
「基本的にはカウンターの中にいる感じになり、ます」
「はいっ!」
「えっと、それで……お酒を注ぐグラスなんだけど、ちょっと細かいんだ……」
俺も最初戸惑った。オーナーが食器にこだわりがあるらしくて、アルコールのタイプによって最適なグラスを使いたいらしい。でもそんな細かい説明にも、「はいっ!」って元気な返事が返ってきて、その元気さに小突かれたように仰け反りたくなる。
もしかしたら、初めて遭遇するタイプかもしれない。こういう人。
大きな口を真一文字にして、その両端だけがクイッと上がる笑い方も、眉毛がせわしなく動く表情の豊かさも、それと――。
「はいっ!」
この元気な返事も、全部がとても不慣れで、疲れる。
「……っていう感じなんだけど、わかり、ます?」
「ばっちりっすよ! このグラスがウイスキーで、こっちがビール」
ドヤって顔されてもな。
「ううん。違う。こっちがウイスキーで、そっちがビール、それでこれが」
「ブランデー!」
「ごめん、違う、ワイン」
おお、って感嘆の声を上げてるけど大丈夫かな。
「じゃあ、これは?」
「…………スパークリングワイン!」
「正解。グラス間違えないようにね。そしたら、仕込みをしないと。オリーブを串に刺すんだ」
大丈夫かな。合ってたけどとても不安だ。グラス間違えると、たぶん、キャストさん達も困惑するから。
「……笑った」
「え?」
「今、クロさん笑った」
「え、そう?」
「こう、ふわーって笑った!」
そんな両手を広げるほどふわーって感じだった?
「綺麗ですね」
「は?」
「笑った顔も」
変な人だ。そして、一つ一つがオーバーな人。やることも言うことも、掛け算して何倍にも膨らませたような感じ。
「綺麗じゃないよ。聖司君のほうがカッコいいし、整った顔してる」
「そりゃ、そうですよ! これで食ってたもん」
「? モデル、とか?」
でも、その金色のメッシュはたしかにサラリーマンとかじゃないだろう。アルバイトも、断られることがありそうな派手なヘアースタイル。俺が通っていた大学でもあまり見かけないかもしれない。
モデルさんならこの派手さはありえるだろうし、綺麗な顔をしているから。
「違う違う、ヒモすんのには、見た目大事だから」
「紐?」
紐をどうするんだろう。手品師とか?
「んー、そうじゃなくてぇ、クロさん、天然?」
「……って、あの、ヒモっ?」
また、びっくりした。一瞬、すごい世間知らずみたいになってしまった。彼はニコリと笑って首を傾げると、カウンターの中でオリーブの仕込みを始めた。鼻歌混じりに楽しそうに。失礼だけど手先器用そうに見えなかったから、手間取ると思ったのに、俺よりもずっと手早く串刺しを皿の上に並べ終わっていた。
「はい! できた。俺ね、ずっと、ヒモして暮らしてたんすよ」
そう明るく突き抜けた青空のような笑顔で告げる。
「頭が悪くて学もないし、元々家出同然だったから、職無し家なし、金もなしのガキだったから。次は、何します?」
「あ、そしたら、チーズを……」
「あーい」
冷蔵庫の中、白いタッパの中にあるチーズをカットして、すぐに出せるようにしておく。カットはその日ごと。じゃないと表面が乾燥してしまうから。
「それで、切ったチーズを」
「クロさんは上品っすよね」
覗き込まれて、黒猫の俺は目を丸くしてしまう。
「頭良さそうだしー、おしとやかっていうか」
「……」
「いいとこの子―、みたいな」
いいとこ、そうかもしれない。教養でもなんでも欲しいだけ与えられていたから。躾にしても、勉学にしても、なんにしても。
「そう、かな……」
でも、櫻宮の家にとって必要なツールでしかなかったから。
「ごめーん! クロたん! 酒屋さんが来てるんだけど」
「あ、はい」
話し込んでる場合じゃなかった。
もう開店間近、慌てて聖司君を連れ、外の酒屋さんがいつも待っている非常口へと案内した。できるだけわかりやすくと頭を捻りつつ説明をする。
「伝票のやり取りとかもあるんだけど」
彼は元気に「はいっ!」って答えて、ビール瓶がぎっしり詰まったケースを持つと少しよろけて、不慣れな足取りでエレベーターへと向う。その隣に並ぶと、重いって言いながら楽しそうに笑っていた。
人に教えながら仕事するってけっこう疲れるんだ。普段よりずっと疲れた。
「聖司君、洗ったグラスは逆さにしておく」
「はいっ!」
「で、俺はヘルプだからもう上がるけど、聖司君はフロアの掃除をして、今日の仕事は終わり」
「はいっ!」
ふぅって、二人ほぼ同時に溜め息をついた。
「掃除はヒモん時にけっこうしてたんで、大丈夫っすよ」
笑いながら、彼は掃除道具を出すとまた鼻歌混じりに清掃を始めた。
「さっきのさ」
「はい? なんすか?」
「さっきの」
仕込みしながら話してたこと。
「そうでもない、よ」
「……」
「いいとこの、子ってやつ」
家出した後に、俺は呼吸をして、生きているって、感じられるようになった。
「ありがたいって思うけど、でも、俺は、やっぱり、何も持ってなかったよ」
教養とかお金とかはあったけれど。
「……クロさん」
「って、ごめん、俺、掃除の邪魔だね」
「……」
そろそろ迎えが来るんだって笑って頭を下げた。
今、生きてるって思う。でも、前は、生きているとか、わからなかった。
「お疲れ様です」
「聖司君も、初めての仕事、お疲れ様。また明日」
生活するってさ。忙しくて、慌しい。だから疲れるし、腹も減るし、眠くもなる。明日は天気どうだったっけ? 雨じゃなければ、マット洗いたいかも。あ、そうだ、まな板を漂白し忘れてる、明日しなくちゃ、とかさ。そんな色々があるから、思い悩んでばかりもいられない。そして、一日が終わる頃、お風呂に浸かって深呼吸がしたくなる。
「久瀬さん!」
「おーお疲れ」
帰ったらすぐにお風呂入らないと。この人が風邪を引いてしまったら大変だ。あ、そうだ。あと、アキさんから正月のお祝いにってちょっとお酒もいただいた。で、チーズ、もらってきたかったけど、それは図々しいかなって思ったから。おつまみ買いに帰りにコンビニ寄れるかな。コンビニ寄るならパンを……って、もう時間が時間だから、パンは定番のしか残ってないかも。
なんてさ。
色々が怒涛のように進んでいく。
「疲れた。久瀬さん」
「あぁ」
「けど、久瀬さん見たら元気になったよ」
「あぁ……そりゃ、よかった」
怒涛のように、そして楽しげに時間がすぎていくんだ。
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