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第52話 背中の羽

「なぁ、クロ、夕方から野菜市でキャベツが安かったから、後で一緒に行くか」  今日はアキさんのお店が定休日だった。だから、一日家でまったり家事をしながらすごしてた。今は普段どおり、この人の執筆を邪魔しないように、背後のソファでうとうとしてみたり、大きな背中を眺めたりしてる。 「いいよ。俺ひとりで行ってくる」 「なんでだよ。一緒にいけば、キャベツ二個買えるぞ」 「冷蔵庫がキャベツだらけになっちゃうじゃん」  それに貴方の執筆の邪魔をしない、が飼い猫クロの鉄則だ、って勝手に、先代のクロと約束してるんだ。 「ねぇ、久瀬さんってさ、書くのやめたくなったこと、ある?」  でも少しだけ。この人が話しかけたってことは、ちょっとだけ一呼吸置きたい時だから、こっちからもちょっとだけ。  ふと思った疑問。俺が知ってる執筆中のこの人の背中はとても自然体だったけど、でも、この人は長い髪が嫌いだと言っていた。書くことにしがみついてる自分をダサいって。 「……あるよ、何度もある」 「……」 「珍しいな。執筆中に話しかけてくるの」 「……ごめん」  いや、と首を振って笑って、久瀬さんが執筆の時限定の眼鏡を外した。そして、ゆっくりとこっちへ身体を向けて、長い髪をかき上げる。  息をするのと同等に、食事をするのと同じに、生きていく上で不可欠なもののように執筆をしていても、やめたい時ってあるのかなって。聖司君はやめてしまったけれど、なぜかそれをもったいないと思った。 「いや、別に、いいよ」  俺にはない感覚だったからかな。続けてみたらいいのにと思ってしまう。だってここに、続けていて、今楽しそうに文字を綴る人を知っているから。 「才能がない。文才? なんだそりゃ、どうしたらそんなもん手に入れられるんだってな」  才能、あまりにも不確かで、不明瞭な、けれど、なければ文章は綴れない気がするほど、必要なものだと、思っていた。  サッカーや、野球、そういったスポーツなら、勝ち進めればそれは結果として評価の材料になる。評価、成績は少なからず才能の指標になる。ハットトリックを何回も決められたら、そりゃ才能があるだろう。スーパーゴールを紙一重で止められたら、それも才能。  カラオケで百点満点をたたき出せたら。鉄棒に触ったことすらなかった奴があっという間に宙返りをしてみせたら、それは誰もが認める才能だ。  でも、文才は不確かだ。  自分で決められることじゃない。何かをすれば、っていう境界線があるわけでもない。書いて読まれて、評価をされて、そこで初めて文才の欠片が認められる程度。微細で、とても不透明だ。 「欲しくてなぁ、文才」 「……」 「他人が高評価を得るのを見る度に腹の中が黒く変色していく気分だった」  どろどろとしたヘドロのような、鉛のような、黒いものが腹の中で溜まっていく感じ。重くて苦しくて、もうそんなもの吐き出してしまいたいけれど、苛立てば苛立つほど、腹に溜まっていく。 「あぁ、もう書くなんてことやめよう、って思ったことが何度もある」  諦めて、手放してしまえば、もうこんな苛立たなくてもいい。ないものねだりをやめてしまえばいいんだ。そう思って、布団に潜る。 「けど、翌日、主人公はこの後どういう行動を取るのかって、頭の中で自然と考えてるんだ」 「……」 「プロットの通りでいけるのかを確かめる自分がいる」  頬杖をついて、久瀬さんが呆れたように笑った。 「で、自分に呆れながらも、また書いてる」 「苦しくても?」 「あぁ、開き直るんだ。もう書くのをやめろと誰かにいわれたわけじゃないって、しがみついてな」 「……きつくても?」 「あぁ、楽しいこともあるからな」  楽しいこと。たとえば……。 「まぁ、最近で言うなら、ひとりのファンがこっそり俺の書いたドラマCD聴きながら、アナニーしてた、とかな」 「!」 「あと、そのアナニーしてたCDと同じのを買ってったおねえさんを嬉しそうに見送ってくのを見た、とかな」 「! そ、それ、俺じゃんっ」  大きな手で、俺の頬を撫でてくれる。猫を可愛がる指先だ。 「そういうことだよ」  そして、くしゃっと笑った。 「自分がどんな思いで、へどろ抱えながらでも、苦しんででも、書いたものを楽しみに読んでくれる人がいる。たったそれだけで、あぁよかったって報われるもんだ」 「……」 「単純なもんだよ。人間なんて」  久瀬さんのファンは俺一人じゃない。ねぇ、たくさんいるよ。きっとあっちこっちにいて、俺はその中の一人でしかない。  きっと誰かからのファンレターだって貴方の執筆の手を救えた。筆を折ることを阻止できた。でも――。 「俺、貴方の小説、すごい好きだよ」  でも、それを俺ができたことがたまらなく嬉しいんだ。 「大好きだった。ずっと前から」  今度は俺が擦り寄った。指先じゃなくて、唇を主の唇にすり寄せて甘えて、キスをした。 「小説だけ?」 「久瀬さんも全部、丸ごと」 「……クロ」  キスをしながら、のしかかると、俺より大きい貴方が簡単に倒れて組み敷かれながら笑っていた。  けっこう大きなキャベツだ。これ、二つは本当にいらないよ。久瀬さんを無理やり閉じ込めておいてよかった。って言っても、風呂のセットと洗濯物をお願いして足止めしただけだけど。まだ四時なのに、急に冷えてきたからちょうどよかった。 「お前どうすんだよー。あんなとこ取れねぇじゃんかー」  公園の脇を通った時だった。そんな声が聞こえて、ふと顔を上げると、男の子が数人、木の根っこのところから上を見上げている。その視線の先には、サッカーボールが枝の上に乗っかっている。  サッカーの途中で蹴り上げて運悪く、って感じなんだろう。  大人が背伸びしても届かない場所だけれど、どうにかできないだろうかと、そこら辺で拾った枝を手にぴょんぴょん飛んでいた。 「ボール、乗っかっちゃった?」  いきなり話しかけられて、冬の夕暮れ、時間が時間だから、薄暗くなってきた中、少し驚いていた。 「ごめん、これ持ってて」 「え? あ、うん」 「取れる? お兄さん」 「うん……」  たぶん、取れる。この木、剪定で切られた枝が残ってるから。ここと、そこ、あと、ここに手を置けば。 「……っ、はい」  枝と枝の隙間から手を伸ばして、ボールを突き上げるように下へ落っことした。子どもが笑顔で、それを拾いに駆け出して、大玉キャベツを持ってくれていた子はその場で、「すげぇ」って目を輝かせて喜んでる。 「ありがとう!」 「……いえ」 「やったぁ、おにいさん! ありがとう!」 「……う、ん」  びっくりした。 「気をつけて」  肩、痛くなくて、びっくり……した。

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