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第53話 恐いこと

 登れた。びっくりした。木に、登れたから。  あんなに痛かったのに。両手でも自分自身の体重に耐えられないほどの、悲鳴じみた激痛に耐えられなかったのに。少しも痛くなかったんだ。  けど、一番びっくりしたのは、あんなに痛かったことも、クライミングができなくなったことも、あまり何も考えず、自然と手を伸ばしてたことだ。身構えることもなく、本当に、ふわりと木に登ろうとした。  けっこう掴めたな、って、自分の掌をぎゅっと握りながら、その握力を確かめた。 「……」  なんで、さっき、これっぽっちも身構えなかったんだろう。もう現役だった頃の最後のほうは痛みに堪えることができなくなって、登る瞬間、まだ何も掴んでない時点で肩が痛いって錯覚を起こすほど恐かったのに。 「なぁ、クロ」 「あ、うんっ」  洗濯物を畳んでる最中、ふと自分の手元を見て、掌をものすごい見つめてた俺は慌てて顔を上げた。 「あれ、かなりでかいキャベツだから、今日は、ロールキャベツにしようか」 「え? 作れるの?」 「いや。作れない。お前、目玉焼きを焦がす俺が作れると思うか?」 「……」  作れない気がする、と言ってしまっていいものか、久瀬さんが傷ついたりしないだろうか、って、返答に迷っていた。きっと顔に出てたんだ。久瀬さんはしばらくそんな俺をじっと見つめて、あぁ、いいリアクションが観察できたって、吹き出すように笑って、俺の髪をくしゃくしゃにした。 「クロ」  なぁに? って返答の声が不貞腐れた。子ども扱いしてるんだろうって、口をへの字にして、でもそれもまた子どもみたいだと貴方が笑いそうだから。大人の不貞腐れ方を色々考えてみたんだけど、良いのが思いつかない。 「!」  そんなことをグルグル考えてたら、つむじに、キスを、くれた。  何も言わず、つむじにキスをひとつして、ロールキャベツねぇ、と呟き、普段はほとんど使うことのないスマホでレシピを探し始めた。 「久瀬さん」 「んー?」  立ち上がってしまった貴方のつむじには届かないからキスができない。だから、その代わりに、眉間にキスをした。 「俺も手伝うよ。今日はバイトないから」 「……あぁ」  小説のカバー紙、巻末のそこに作者って紹介されている貴方の写真は少ししかめっ面をしていた。ちょうど今、俺がキスをしたところに、皺を寄せて難しい顔をしている久瀬さんの写真。でも、実物のこの人はそんなところに皺を刻むことなく、自然と執筆をしているけれど。 「じゃあ、まずはキャベツをだな」 「うん」  俺が貴方をそんなふうに変えられたのなら、とても嬉しいと思ったんだ。  今日は、聖司君、グラスとお酒の銘柄覚えてくれるかな。お店的にも売り上げに貢献するわけじゃないボーイ二人分の人件費はちょっとイヤだろうし。俺も、そろそろバイト見つけないと。 「真っ赤な顔した、鬼さんたちはぁ」  店に入ると歌が聞こえてきた。弾むような歌声で、リズムはクリスマスソングの定番、青鼻のトナカイ。でも、歌詞は赤鬼さんのお話になっていて。きっと替え歌だ。来月節分だっけ。  そんな節分クリスマスソング。  お店の、手押しするには少し重たい扉に、今、開店準備中の看板がぶら下がっている。そこをそっと開けるとキャストさんたちよりも早く出社して準備をすることになっている新人ボーイ、聖司君がいる。  清掃業務のためとしても少し早い時間、たぶん、店の中にいるのは店長だけだ。その店長も控え室のそのまた奥、面談も行われる店長室の中に篭もって会計の確認をしているはず。だから、今、フロアにいるのは聖司君ひとりだけで、彼もそう思ってるんだろう。誰に遠慮することもなく楽しそうに歌っていた。  うん。すごく、楽しそうだ。 「それ、赤鼻のトナカイ、だよね」 「うわあああああ!」 「お疲れ様」 「……」  さっき歌ってた歌詞の赤鬼みたいに、真っ赤になってしまった。 「ごめん。入ってきたら楽しそうに歌ってたから」 「……」 「邪魔しちゃったみたいで。あの、掃除、してて。俺、キャストのほうの部屋掃除してくるから」  本当はそこはボーイの掃除エリアじゃない。自分のことは自分で。キャストが自分たちで掃除をするところなんだけど、聖司君が居心地悪そうだったから、退場したほうがいいかなって。 「た、楽しそうでした?」 「……うん」  とても楽しそうだった。 「赤鬼も踊りたくなるような……なんて」 「……」  こんな時、久瀬さんだったら、きっと素敵な言葉を紡げるんだろう。俺には到底無理なんだけど。あの人みたいに優しく温かい言葉は、俺にはちっとも。 「……俺、歌うの、恐かったんです」 「……ぇ?」 「……自信と一緒に、なんか、いろんなもんを、歌で刈り取られたから」 「……」  モップを両手でぎゅっと握り締め、聖司君がその手元をじっと見つめた。  歌手になりたいと上京した。そして、自分が持っていると自信たっぷりだった才能がそこら辺にいくらでも、誰でも持っているものなんだと現実に打ちのめされた。 「だから、あんま人前で歌うのとか、できなくなってて」  それはまるで久瀬さんの昔みたいだった。 「クロさんのおかげです」 「……」 「  きっと、久瀬さんなら、もっと良い言葉を紡げる。もっと優しくて温かくて、彼を包み込んで癒してあげる事を言える。  彼を励ますことができる。 「ありがとうございます!」  そう思った。  そしたら聖司君はきっともっと元気になるだろう。もっと楽しい毎日を過ごせるだろう。 「なんか、楽しくなれるかもです!」 「……」  でも、キラキラとした笑顔でそう言う彼に、何か、チクチクした。 「ぁ……ううん」  俺の大好きな人、久瀬さんっていうんだけど、きっと君の相談に乗れると思う。だから、今度――。 「役に立てたならよかった」 「はい!」  言えなかった。言ってあげられなかった。 「それじゃあ、俺、向こうの掃除してくるね」  チクチクから逃げるように、俺は彼の顔を見ることなくキャストの控え室へと足早に向かった。

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