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第54話 意地悪猫
なんだろう。こういうの、胸のところに灰色をしたモヤがかかるように、濁った感じ。こういうのは、あまり良くない感情だってわかってるのに――。
「あ、聖司君、シーザーサラダのトッピング」
「クロたーん!」
店内入り口のところから、このボーイがいるカウンター、店の一番奥にまで届くほど大きな声でアキさんが俺を呼んだ。あまりに大きな声で俺と聖司君だけじゃなくて、店内にいる人全てが顔を上げてそっちを見てしまうほど。
「久瀬さんっ!」
でも、その声に負けないくらい大きな声を出してしまった。
だって、久瀬さんがお店の中に来たなんてさ。
久瀬さんが店の入り口に立っていた。チャコールグレーのいつものコートを着て、隣で俺が喜ぶだろうと飛び跳ねるアキさんに仏頂面をして。
「え、なんで?」
「んー? 執筆、スケジュールの通り進んでるしな」
久瀬さんだ。
「それに、見たことないだろ? お前がここで仕事してるとこをさ」
久瀬さんが来た。
「制服……」
「え? あ、うん」
私服ってわけにはいかないから、前準備の時は着てないけど、営業中はボーイらしい格好になる。シャツにネクタイ、ベストに、黒のスラックス。何の変哲もない格好だけれど。
「色っぽいな……」
「!」
前かがみになって、俺の耳元でこっそりと何を話すのかと思った。そして、内緒話で打ち明けられた、制服の感想に真っ赤になって。
「セクシーすぎやしないか?」
今度は普通の声のトーンで、そんなことを言われて、照れて、もっと赤くなる。
「わぁ……クロたんって、成の前だと本当に可愛いのね」
「だろ? だから」
「ちょ! アキさん!」
少しオーバーすぎるリアクションと、なんか今日は変なスイッチでも入ってるみたいな久瀬さんにどうしたらいいのかわからない。俺は、急いで、何かをかき消すように、慌てて。
「あ、あの、久瀬、って、あの、久瀬成彦さんですか?」
そんな俺たち三人の間にひょっこり顔を出したのは、聖司君だった。
少し赤らんだ頬、目は店内の照明のせいだけじゃなく、キラキラ輝いている。そんな顔、そんな視線、そんな声、を――久瀬さんに向けてる。
「あ、あー、そう、だけど」
俺が、久瀬さんにそれと似たものを向けているから。
でもちょっと違うんだ。俺のは、ちょっと違う。もっとすごくて、もっと強くて、もっと深いよ。ただのファンなんかじゃない。ずっと、ずっと、すごく。
「うわ! マジですか?」
すごく、すごいんだから。
「あのっ、俺、小説読んでます!」
「あー、ありがとうございます」
「! いえ! 全然、俺、すごい好きで」
あぁ、どうしよう。なんか、チクチクする。
「この前の、あぁ、愛しの黒猫、拝読しました! 優しいお話でした!」
「あー……ありがとう。出たばかりなのに」
「いえ! 即買いですから!」
やだ、な。
「ありがとう」
「いえ! あのっサインとか」
すごく、やだ。
「聖司君っ」
チクチクも、モヤも、こんなふうに久瀬さんの邪魔になる俺はイヤなのに。
「サラダ、途中だったでしょ」
「あ、そうだった。すんません。あ、久瀬さん! 失礼します!」
でも、聖司君のことを、今、この瞬間だけで、あまり好きじゃなくなったのも、イヤだ。イヤだけど、止められなかった。慌てて、なんでもいいからここに持ってきて、二人の間を繋ぐ会話を断ち切りたい気持ちが堪えられなかった。
「すげぇ、クロさんの、その、あの人って、久瀬さんだったんすか?」
「そうだよ」
「うわぁ、すごいっすね」
「俺の、恋人」
「うわぁ、すごい!」
ムカムカする。即答で、あの人は俺のだって言っても、表情一つ崩さない聖司君を見つめながら、少しでも心の機微を察知しようと必死だ。ちょっとでも、別の感情が、たとえば、恋愛みたいなものがその瞳に滲んだらって心配しながら、聖司君のことを注視してる自分がいる。
でも、今のところそんな気配は、ない。
「うわぁ、小説家さんが相手なんすねぇ」
「うん」
本当にただの久瀬さんのファンっていうだけ。
「そっかぁ」
ただ、それだけ。
そう、何度も何度も確かめていた。
こういうの良くない。姑息だし、気持ちが小さすぎる。そう頭ではわかってるんだけど。聖司君のこと冷淡に観察するのが、兄たちみたいでイヤなのに。
あれみたいだ。
親切とか、単純な好意とかをそのまま受け取れないあの人たちみたい。裏があるんじゃないか、その笑顔の裏側をひっくり返したら何が出てくるんだ? って、ずっと勘ぐってるようなのを悲しい人たちって思ってたのに。
今の俺って――。
「頑張ってたな」
「……え?」
帰り道、俯いて歩いていた。久瀬さんは貧乏小説家ってアキさんにからかわれて、ワインを何杯か社員割引ってことでいただいていた。
「クロ」
「……」
「ホント、カッコよかったぞ? いや、カッコいいっていうより、エロかった」
「ちょっ」
シーザーサラダは俺が作った。聖司君が作ろうとしてたのを奪ってしまった。
「あと、綺麗だった」
「……久瀬さん」
この人は俺のだから、って必死に自己主張する意地悪黒猫になっていた。
「バーカ」
「わっ、ちょ、何?」
俺、意地悪な顔をしてた? 久瀬さんはじっとこっちを見つめてから、笑って、俺の髪をくしゃくしゃにしてセットを崩してしまった。
「ったく、可愛いな、お前は」
「は? 何? バカで可愛いって、なっ」
何? そう訊きたいのに、久瀬さんはその長い脚で歩道を闊歩して、先へどんどん行ってしまう。
「もう! 久瀬さん!」
そして、そろそろうち、というところで、二人分の朝食用のパンを買おうと、コンビニに寄り道をした。うちに辿り着く頃には、そのついでにと買った肉まんを食べさせてもらって、甘やかされて、胸のモヤは消えてなくなっていた。
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