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第55話 世界は広い!

 仕事、しないとって思うんだ。もう櫻宮の人間じゃない。強いられてやらないといけないことは何ひとつない。  そうなったらさ、なんにもなかったんだ。  やらなければいけない、っていうレールの上で、ガタゴト揺らされて居心地が悪いとぼやいてばかりだった俺は、なんにもできない子どもだった。  でも、なにもできない俺でも何かしないとだろ。 「うーん……」  未経験可で、ここから通えて、とりあえず、なんでもいいから、仕事しないと。久瀬さんにおんぶに抱っこじゃ、イヤだからさ。 「クロ」 「あ、ごめん。タブレット、ありがと」  少し借りてた。そういうのもさ、おんぶに抱っこっていうか。この人の商売道具だから、邪魔になる。  慌てて、久瀬さんの席になっている場所からどいた。いくつか仕事見つけられたから、そこに電話をしてみないと。 「いや、使ってていいよ。今、本読んでるから。そうじゃなくてな……」 「うん?」  場所が入れ替わってた。俺が久瀬さんの執筆するところに座って、仕事を探してて、久瀬さんは俺の指定席になっているソファの上で本を読んでいた。映画と同じように、恋愛ものじゃなくて、推理サスペンスもの。恋愛小説家なのに医療ミスをテーマにした殺人事件の物語を読んでる。 「やりたい仕事にしろ」 「……」 「別に、お前一人分くらい食わせてけるし、アキの兄貴はコンスタントに仕事が頼めるならありがたいって言ってた。お前が金のことを気にして仕事を探してるのなら、そっちがある。だから、仕事探しは急がなくていい。見つけるのなら、やりたい仕事にしろ」  小説を読む手を止めて、ソファに寝そべっていた久瀬さんが床に足を下ろし、座り直した。  やりたい、仕事って。でも。 「わかったな?」 「……」  そういって、久瀬さんは俺の頭を撫でると読んでいた小説を閉じて、立ち上がり、コーヒーを淹れにキッチンへと向かった。  やりたい、こと。  やりたい、仕事。  それは、なんだろう。  俺の、やりたい、ことは――。 「なぁ、クロ」 「?」 「そろそろ、時間だろ? アキの店の」 「あっ!」  時計を指差して教えてくれた。慌てて立ち上がり、ダウンコートを鷲掴みにして、靴を履く。 「あ、あの、久瀬さんっ」 「あぁ、行ってらっしゃい」 「あ……」  靴を履いて立ち上がると、キッチンから玄関に来てくれた久瀬さんが頭にキスをしてくれた。 「ぁ、えっと、いってきます」 「あぁ」  そして、そのキスに照れてしまった。こんな挨拶のキスよりももっとすごいことをたくさんしてるのに、真っ赤になって俯いてしまう。 「ほら、早く行かないとだろ?」 「! い、行ってきます!」  この人のことが大好きなんだ。ずっと一緒にいたい。だから、仕事をして少しでもこの人の負担にならないようにしたい。  でも、その仕事はなんでもいいわけじゃないと、言われてしまった。  あまり考えたことがなかった。したいこと、やりたいこと、を自由にやっていい家じゃなかったから。もう習慣のように、何をする時も、何かを選択する時も、俺はその全てを家に委ねてしまっていた。 「……俺の、やりたい、こと」  あの人と一緒にいたい。それとは別のもうひとつ、やりたいことを。 「……」  俺は見つけないといけない。 「私の仕事?」 「はい」  アキさんは医療系って言ってた。昼間、そっちで仕事をしてから、この女装バーで趣味を兼ねた副業。 「んー」 「あ、すみません。準備、ありますよね」 「私は準備ないから大丈夫よ」  女装バーのキャストさんは人それぞれだ。アキさんみたいに女装したまま店に来る人もいれば、男性の格好でやってきて、ここで着替える人もいる。 「何? なんか悩み事?」 「あー、まぁ、その……仕事って」 「そっかぁ。私は、ほら、あるでしょ? 高校の職業案内みたいなの。それで、こういういいなぁって」  俺もそういうのじゃダメなのかな。なんとなぁく、で、選んだら。 「……クロたん」 「!」 「世界は! 自由なのおおおおおお!」  びっくりした。いきなり、控え室で両手をバッと広げて、そんなことを叫ぶから。俺だけじゃなくて、隣にいた人が驚いた拍子にアイラインがはみ出してしまうくらい。 「あ、アキさん?」 「……だからね? もっとたくさん世界を見てみるのよ。貴方には可能性がたくさん広がっている」 「……」 「なんなら、女装の世界も広がっている」 「え? いや、それはいいです」  もー、なんでよーって、アキさんが頬を膨らませた。そっちの世界にはそんなに広がりがなくていいからって丁寧に断ると、絶対に似合うのに、なんて恐いことを言っている。 「貴方の主は勇気があるわね。貴方の最善を願うのね」 「え?」 「んーん。なんでもない。ビビりだと思ってたんだけどねぇ」  ビビり? あの人が? 「クロたん、貴方の手はどんな未来だって掴めるの」  じわりと、指先が熱を持った気がした。 「って、この前見た映画で名女優さんが語ってたわ」  なんだろう。何か、今、ちょっとだけ何かに触れられたような、そんな感じがした。でも、それは指先を掠めただけで、掴めずどこかに隠れてしまった。  世界は、自由なの。  その言葉で今、何かを――。 「なんか、あったんすか?」 「え?」  キャスト用の控え室を出ると、聖司君がカウンターの中でグラスを磨いていた。 「あ、ごめん。ひとりでやらせてた。何かわからないこと、あった?」 「世界は、自由」 「聖司君?」 「けど、自由すぎて選ぶのすごい大変だから、その辺にあるものでとりあえず満足するのが一番、幸せっすよ」  世界は、自由なの。なんでも、できる。けれど、なんでもできるというのは、とても広すぎて、その中から自分のしたいことを見つけるのがとても難しい。だから、そんなの探さないほうがいい。適当に、が一番楽でしょ。そう言って、聖司君が、また笑っていた。

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