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第57話 猫は身構える
「あ、クロさん、エレベーターのこと聞きました?」
「……え?」
「壊れちゃったみたいで、そのエレベーター脇の階段使ってくれって店長が」
あぁ、だからか、営業中、キャストの皆が騒がしかったっけ。カウンターの中にいる俺はあまり会話を聞いてなかったけど。そうか、それで修理がどうとか話してたのか。聖司君は明るい性格で会話の輪に飛び込んでいくのがとても上手だ。だから騒がしくなったなぁって思った時にはキャストの中に紛れていた。そこでエレベーターのこと聞いたんだろう。
「いつ直るんすかねぇ」
「……」
胸のところに、小さなしこりが、残ってる。
「久瀬さんの小説、好きなんだね」
あの人の読者さんが身近にいたなんて、むしろ大歓迎すること。あの時は嬉しかった。久瀬さんが書いたシナリオの入っているドラマCDをどこかのお姉さんが買っていってくれた時。それと同じなのに。なんで、今は嬉しくなれないんだろう。
心が狭くなったのだろうか。
あの人を独り占めしたいなんて、思っていいのは、あの人のプライベートだけだ。うちの中だけで許されてる独占欲だ。だって、あの人は一歩外へ出たら、もう「作家、久瀬成彦」なんだから。
「俺も、好き。あの人の小説」
だから、我慢をしないといけない。
「え、そうなんですか?」
「うん。ファンだし。小説、全部読んでるよ」
あの人を独り占めしていいのはうちの中でだけ。
「え……じゃあ、読者のクロさんと、ってこと?」
「あー、いや、そういうわけじゃなくて。最初、読んでたって言わなかったんだ。だから、最初のうちは知らずに、その……そういう」
そういう関係になったんだ、って、最後のほうは少し照れが混ざって声が小さくなってしまった。
「じゃあ、俺も、可能性はゼロじゃないってことなんだ」
弾んだような、明るい聖司君の声が、まだ開店前で、キャストさんも来ていない、静かなフロアに響いた。
ゼロじゃないって、可能性って、なんの?
「ほら、芸能人がファンとかに手を出して問題になったりするじゃないですか。作家さんも一応有名人だから、読者はまずそういう対象から排除されてるんだろうなぁって」
大きな口を真一文字にして、その端だけが上がる、元気でカラフルボールが飛び跳ねるような笑顔。
一緒にいる人の気持ちも弾ませてしまうような、楽しそうな笑った顔をしてる。
「そう思って、諦めてたんですけど」
「……」
「けど、それだったら、俺にも可能性あるんじゃないかなぁって思って」
「……」
それをどうして彼は、俺に言うんだろう。俺と久瀬さんが、恋人同士だって知っているはずなのに。どうしてその恋人の俺からあの人を横取りするようなことを、目の前で笑いながら言うんだろう。
「カッコいいし」
元気ハツラツな彼の笑顔が変わった。
「男っぽくて、優しそうだし」
妖艶な微笑みに。そして、ふと、思い出した。
――俺、ネコもタチも両方できるんですよ。
そう言っていたことを。彼がゲイで、男相手に愛人みたいなことをしていたことを。
「夜のほうも上手そうだし……」
そして、俺のキスマークを見て、激しいセックスをする人なんですねって、その時は久瀬さんだなんて知らずに、俺も教えずに、話していたことを。
彼も覚えているのかもしれない。
久瀬さんとした痕跡が俺の身体に残っていたのを覚えていて、思い出して。
「あの人はっ! 俺とっ!」
横取りしたいって思ってるのかも、しれない。
「物じゃないんだから、俺のとか、誰のとか、ないと思うんですよねぇ」
「……」
「気持ちなんて離れちゃったら、それで終わりでしょ? 物はその点、気持ちなんてないけど」
「……」
あぁ、どうしよう。
「久瀬さんが心変わりしたら、それは仕方ないことかなぁって」
「っ」
「思いません?」
聖司君が「久瀬さん」って俺と同じように呼ぶのすらイヤになってしまった。我慢しないといけないはずなのに、悪化してしまった。
「あと、もう一つ」
もう聞きたくない。彼の話すこと全てが胸のところのしこりを大きくするだけだ。モヤを濃くして、重さが増していく。
「読者であるクロさんとそういう関係になったんなら、俺も可能性はゼロじゃないでしょ? そんで」
「……」
「俺、愛人とかしてたから、得意なんですよ」
聞きたくないのに。
「相手を楽しませるのも、満足させるのも」
聞いてしまった。
恐くて。猫が道路で車と激突する瞬間、恐怖のあまり身動き一つできないのと同じように。彼が久瀬さんを欲しいと言っているのを、恐怖心から耳を塞いで、顔を背けて、逃げ出すこともできず聞いてしまっていた。
そろそろ俺は上がる時間だった。時計を見て、久瀬さんが迎えに来てしまうかもって、慌てて、店内のゴミを掻き集める。
聖司君はボーイとしてメインだからまだやることがあって。俺はただのサポーターだから、ゴミ捨てついでにこのまま仕事は上がりになる。
「聖司君」
「はーい」
「俺、もうこのまま上がります」
「……」
「ゴミ、捨ててくるから」
「……お疲れ様でぇす」
お疲れ様って挨拶と店を飛び出したのはほぼ同時だった。
慌ててた。聖司君が久瀬さんに会うことのないようにって。だって、会ってしまったら読者さんである以上、久瀬さんは笑って話しをする。聖司君が、何を考えてるかなんて知らないで。嬉しそうに小説のことを話したがる、作家の久瀬さんを慕う彼のことをもしかしたら気に入ってしまうかもしれないとも思った。
「……まだ?」
けど、まだ久瀬さん来てなかった。慌てて急いで階段を駆け下りた。
「あれ? 久瀬さん、まだお迎え来てなかったんですか?」
「!」
普通の、いつもどおりの聖司君の明るい声だったのに、なぜか、今の俺には胸に残るしこりを剣で刺されたような衝撃と痛さがあった。
「なぁんだ。いると思ったのになぁ」
「……」
「残念」
聖司君の笑った顔はコロコロ変わる。大きな口でニコッと笑った顔は好きなのに。
「聖司君」
「ねぇ、クロさん」
「……」
「男って、性欲には抗えないと思うんです。クロさんはそうじゃないかもしれないけど、セックス相手はすぐに新しいのが良いって思う生き物だし、若いほうが好きだし。実際、久瀬さんよりクロさん若いですよね? それなら、若いほうが好きな人なのかもですよ? それなら……ね?」
今、階段の上からこっちを見下ろしている彼の笑った顔が。
「久瀬さんは、そういう人じゃない」
「そっかなぁ、じゃあ――」
彼の笑った、今の顔は、好きじゃなかった。
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