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第58話 茶虎猫

 ――試してみます?  そう聖司君は笑っていた。  階段のところ、手すりに肘をついて、こっちを見下ろしながら、目を細め、大きな口を歪ませて、笑っていた。  試さなくていい。そんなの、試さなくて。そう思いながらビルを出たところでちょうど鉢合わせになった久瀬さんに、どうしたって、また眉間を指でぐりぐり押されてしまった。  その日、聖司君は久瀬さんに会わず、だった。 「ねー、聖ちゃん! これ、オーダー違うってば」 「あ、マジっすか。すんません」 「んもー」  可愛い笑顔、人懐こくて、茶虎猫みたいな聖司君が肩を竦めて、今日二回目のオーダーミスをした。注文した料理じゃないのを運んでしまったけれど、でも、その笑顔でお客さんは笑ってすませてくれる。 「まだまだねぇ。早く一人前になりなさいよー」 「はぁい」  でもそのミスが続いてるせいで、一人で働かせるには少し不安がって言われて、俺はサポート役をまだしないといけない羽目に。けど、それはそれで、辞めようと思えば、店長は頷いてくれるだろう。この前もそんなことを言ってくれてた。聖司君を久瀬さんから遠ざけたい俺は、辞めてしまえばいいはずなのに。  そしたら、もう久瀬さんを取られてしまうかもなんて焦らなくてよくなるのに。  わからないんだ。  久瀬さんに言われた、好きなことを仕事にっていうのがさ。まだ、自分が何をしたらいいのか、広すぎる、多すぎる選択肢の中から選ぶのを躊躇っている。仕事探しの条件じゃなくて、やりたいことで決めるのができなくて、まだ迷っている。  そして、ここを辞めることができずにいた。 「……ヒモをしてると、いろんな人とセックスするんです」 「……え?」 「一番びっくりしたのは、俺が他の人とセックスしてるのを見たがる人かな」 「は?」  なんだそれ。そんなの。そういう気持ちが顔に出てたのか、聖司君が苦笑いを浮かべた。 「けど、普段はすっごく好きって言ってくれるんですよ」  ますますわからない。そんなに好きな相手が自分以外の誰かと、なんて見てられない。見たくない。それなのに、その人は聖司君が誰かとセックスしているところを見て興奮してたなんて、おかしい。 「理解できない人もたくさんいました」 「……」 「っていうか、理解できない人のほうが多かったかな」  オーダーは間違えるけど、でも、相変わらず指先が器用な彼はフルーツを上手にカットしながら、寂しそうに笑った。林檎を可愛く、うさぎの形に切って、並べてる。その切り方は俺が教えたわけじゃないし、メニューにあるフルーツの盛り合わせに使う林檎もそのカットの仕方じゃない。聖司君が自分でその形に切った。 「愛する家族がいるのに、俺にも愛してるって言って、何度も何度も抱くんです」 「……」 「嘘っぱち」  今、聖司君は誰の愛人もしていない。だから、その愛してると何度も言った、愛する家族を持っている人とも、すでに終わっている。  愛してるって、言っていたのに。  もう、愛してないって、なってしまった。 「そういうもんでしょ」 「……聖司く」 「ああ~ん、ちょっとぉ、可愛い男の子がふたりで何お話……あ! やだ! このふたり! うさたん林檎作ってる! かわいいいいいい!」  そう叫んで、可愛いからは程遠い、身長が久瀬さんほどにあるキャストさんが、切ったばかりの林檎を手に取ろうとした。 「ダーメ! これはクロ先輩と食べるんでぇす! もお、俺ら腹ぺこぺこなんですよー!」  つい数秒前まで悲しい顔をしていた聖司君はいなくなっていた。ケラケラと楽しそうに笑って、切ったばかりのうさぎ林檎を一つ俺に差し出す。 「どーぞ、先輩」 「……」 「いっただっきまーす」  そしてもう一つを食べて、とても嬉しそうに笑った。唇を真一文字にして、端だけを吊り上げる元気な笑い顔だった。  聖司君は歌手になりたくて上京したって言っていた。  でも、歌が上手い人も、見た目がいい人も、都会には山のようにいて、自分はこれっぽっちも特別じゃなかったんだと、思い知らされただけだった。そして、自分を愛してくれる人に救われた。けれど、それはずっと続く愛情じゃなかった。  彼は欲しいものがあったけど、そのどれもが自分のところには留まってくれなかったんだ。 「クロさーん、そろそろ上がります?」  俺は欲しいものが何もなかったけれど、なんでも与えられていた人だった。 「クロさん?」 「……きっと、君のことを本当に愛してくれる人がいるよ」 「……」  聖司君は俺の好きな笑った顔も嫌いな笑った顔も、する。ずっと笑っている。けれど、今、その笑った顔が、お面みたいにぴたりと固まった。 「だから」 「それ、慰めのつもりですか?」  そして、初めてかもしれない、ほんの少しも笑っていない顔をした。 「さっきの話を聞いて可哀想で慰めてくれようとしてます?」 「……」 「勘違いですよ」 「聖司君」  強張った表情はふわふわな柔らかそうな茶虎のような彼が見せた初めてのものだ。 「愛してるとか、恋人とか、夫婦とか、そういうのくだらないって言いたかっただけです」 「……」 「はい。これ」  その彼が雑にゴミ袋を投げて寄越した。 「それもって、クロさんより先に久瀬さんのところに行こうと思ったけど、どーぞ」 「……」  ゴミは俺が出しにいく。上がりついでに、下のゴミ置き場に出してから、久瀬さんといつも帰っていた。 「それじゃあ、お先に」  そのゴミ袋を拾うと、聖司君が小さな声で「笑える」って言ったのが聞こえた。愛も夢も、欲しかったもの全部が手に入らなかった彼のその小さな呟きは寂しそうで、悲しそうで、そして、苛立っているのがわかった。  まだ掃除あるんで、と突き放した彼の声は萎れたゴムボールみたいに元気なんてこれっぽっちもなさそうだった。 「……お疲れ、クロ」 「……久瀬さん」 「ゴミ、出すんだろ?」 「いいよ。手、汚れる」  すぐそこだしって、差し出された手からゴミ袋を遠ざけようと思ったけれど、奪われてしまった。そして、それを放った後、手をまた差し出される。 「あったけぇぞ?」 「……」 「お前がくれた手袋でたんまりあっためておいた」 「っぷ」 「笑うな。本当にあったかいんだぞ」  うん。知ってるよ。俺があげたんだからって、答えると、貴方も笑って、そのあったかい大きな手で、手を強く握ってくれた。

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