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第59話 あの人が愛する人

「……はい……そうなんですか? ありがとうございます。えぇ、そちらは送って……えぇ、かまいませんが。はい……はい。いいですよ。合わせますので。……わかりました。では、その時間に伺います。宜しくお願いします」  出版社から、かな。  久瀬さんが珍しくスマホで話してる。丁寧な口調で、かしこまってて、きっと出版社の編集担当者からだろう。だから、静かに息を殺して、ってまではいかないけれど、いつものソファの上、定位置に陣取って静かにしていた。 「……どうかした、の?」 「んー? 小説の感想がな、送られてきてるからって」 「え!」  思わず、声が弾んでしまった。 「すごい! それってファンレターじゃん!」 「あはは、そう、なんのかね。そんで、その感想を渡すついでに今年の企画やらなんやら、打ち合わせしたいんだそうだ」 「!」  今度は声も出ないくらい、気持ちが弾んだ。なんやら、ってことはひとつじゃなくて、ふたつじゃなくて、もっと、久瀬さんの書く仕事が広がるってことだから。 「明日、急なんだが打ち合わせになった。手紙のお礼もしないとだしな」 「うん!」 「……平気か?」 「……」  その大きな手がソファの上に座る俺の頬を撫でて、座っている久瀬さんが下からこっちを覗き込んだ。  平気、その言葉には色んな意味が含まれている。俺の帰り道、二十歳の男の帰り道を夜だからと心配してくれるのは、過保護なだけじゃなくて、きっと、菅尾さんや、俺の家のこともあるんだと思う。鍵持ってるし、大丈夫だよって言っても、必ず迎えに来てくれる。  それともう一つ。  聖司君のことも、ある。  あの人も久瀬さんの小説のファンで、俺もファンで、そして、今、たくさん届いた手紙を書いた人たちもファン。 「平気だよ? 仕事、嬉しい」  この人を独り占めしていいのはこの「うち」の中でだけ。この人を慕っている人はたくさんいるんだから。 「忙しくなるね」 「あぁ、けど、俺はなんも変わらないよ」  ただの、久瀬成彦なら、俺のもの。  なんだか、今日は久瀬さんが可愛かった。頬を撫でてくれていた手でうなじに触れて引き寄せ、甘えるように唇をぺろりと舐められた。 「うん」  まるで、毛足の長い、大きな大きな猫みたいな久瀬さんが可愛くて、愛しくて、黒い艶髪を何度も撫でていた。 「あらぁ、明日、成、出かけちゃうの?」 「昼間ですけどね。だから、アキさんのお兄さんのところで、何かやれる仕事があればって思ったんです」 「……ふーん」  新年明けて、しばらくするとお客さんは普段どおりになってきていた。平日で、週始めだったりすると、その数はグンと減る場合もあって、こんなふうにキャストさんものんびりしていた。アキさんも本業が急がしいらしくて、数日ぶりにお店に来たから、お客さんたちも仕事が忙しかったりするんだろう。 「ねね、そしたらさ、うち、来る?」 「……え?」  カウンターに身を乗り出すと、ざっくりとした大きめのニットの首周りがたわんで、同性なのにその胸元が気になってしまう。視線のやり場に困ってしまう俺をよそ目に、アキさんがこっそりとそんなことを呟いた。 「うち、おいでよ」 「あ、あの……」 「ね?」  肩を竦めて、肘をついて、首を傾げる。まるでグラビアアイドルみたいな可愛い仕草。 「すみません。俺、久瀬さんが好きだから」 「…………」 「アキさんはいい友人です」 「…………っぷ、ぎゃははははは!」  可愛いけれど、同性だとしてもその胸元は見てはいけない気がするけれど、でも、俺は久瀬さんが好きだからと丁寧に、しっかりと断った。あの人じゃなくちゃダメだって、そうはっきりと告げたら、なぜか、すごい男声で大笑いされてしまった。  腹を抱えて、身を乗り出していたカウンターから降りて、ふらふらしながら笑って、ヒーヒーするくらい呼吸困難になるほど笑って、また戻ってきた。 「んもー可愛いなぁ。クロたんは」 「アキさん?」 「違う違う。そうじゃなくて。いや、そうでもいいんだけどさ。クロたんのこと愛してるし」 「アキさん!」  からかわないでくださいってちょっとだけ声を張ると、はいはいって、溜め息混じりに静かに笑ってる。 「医療系の仕事してるって言ったでしょ?」 「あ、はい」  言ってた。どんな医療系なのかまでは訊かなかったけれど、でも、その昼間の職場で俺のことを見たことがあるって。 「カイロプラクティック」 「……え?」 「だから、肩、見てあげようか? ちょうどお昼から三時くらいまでは休憩でいないし」 「え、けど」 「友人、でしょ?」  だから、大サービスしてあげるって、ウインクされてしまった。 「肩、クライミングできないほどの故障って」 「……」  そう。もうこの肩で俺は自分のことを引っ張り上げることができなくなった。上へ、登れなくなったんだ。最後のほうは掴むことすらできないくらい痛みが酷くて、正直、クライミングの練習が苦痛で仕方なかった。  そのずっと前から、あの家のことが絡んだ辺りから、登ることそのものが、すでに楽しくなんてなかったけれど。 「少しでも治るかもしれないじゃない? 今、ちっともケアしてないでしょ?」 「……」 「ね、クロたん」  カウンターに置いていた手。その手の甲をアキさんがちょんって、短く切りそろえた、でも、綺麗に赤いマニキュアを塗った爪先で突付いた。 「クロたんの肩、もっと大事にしてあげてよ」 「……」 「時間があるからって、仕事詰め込むんじゃなくてさ」  けど、お金はあったほうがいいと。 「成が愛して大事にしてる、クロたんを、クロたんも大事にしてあげて」 「……」 「それと、私と、あのゴリラ兄貴は血縁って、成のバカ以外知らないことだから、決して言わないように!」  そうなんだ。でも似てないから、誰も信じられないと思うけれど。アキさんが、すごく恐い顔で俺に緘口令をしくから、黙って頷いて、そして、少しだけ笑ってしまった。

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