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第60話 心配
「夕方前には終わるから」
「うん、わかった。アキさんのとこ三時までみたいだから」
「……」
あ、どうしたものか、って顔をした。
「平気だよ。さらわれたりしないってば」
今度は「本当かよ」って疑問符のくっついた顔。
「金持ちたちの発想は俺にはよくわからん」
「じゃあ、今度キャビアにフォアグラ、ツバメの巣に、松茸の土瓶蒸しとかしてあげようか」
「なんだその、はちゃめちゃな飯は」
呆れたって溜め息をついて、俺の前髪をかきあげ、金色の瞳を覗き込んでる。
だって、あんたが金持ちの発想はわからないっていうから、金持ちが食べそうなご飯でも食べてみたらどうだろうって思ったんだ。
「俺は大丈夫! そんなことより、久瀬さんは頑張って」
「お前もな」
「わっ!」
頭を大きな手がわしゃわしゃと撫でる。飼い猫にちょっとだけご褒美の大きな手、そして、次には笑ってくれた。
「肩、ちゃんと診てもらえ」
「うん。わかった。いってらっしゃい」
「……あぁ」
心配しないでと笑顔で手を振った。久瀬さんはそんな俺をたしかめてから、来た道を引き返し、駅へと向かって歩いていった。
今年一発目の打ち合わせ、頑張って欲しい。
俺は、貴方の執筆をもう二度と邪魔しない。小説家としての貴方の邪魔には、絶対にならない。
大きな背中、長い髪、そのシルエットが消えるまでずっと見送った。いってらっしゃっいて、主の背中を、見送った。
「いらっしゃい」
「……こ、こんにちは」
アキさんのやっているカイロプラクティックは小さな二階建てのこじんまりとした医院だった。隣は雑貨屋、逆側の隣はコーヒー豆の専門店。住むには狭すぎる、小規模商業スペースが連なっているうちの一箇所。
準備中の看板がぶら下げてあって、アキさんからは事前に看板は気にせず入ってきてかまわないと言われていた。鍵は開けておくからって。
そして中に入ろうと思ったところで、女性ではなく男性の、昭典さんの格好の彼と遭遇した。当たり前なんだけど、これは夜の仕事じゃないから、男性の格好をしているだろうけど、でも、戸惑った。どうにも慣れなくてさ。こっちの男性の昭典さんになってしまうと途端にどぎまぎしてしまう。
中に案内されると、受付をしているんだろうスタッフさんが奥から顔を出した。いらっしゃいって笑って、また引っ込んでしまう。たぶん、お昼休憩中なんだろう。口がもごもご動いていたから。
「すみません。お昼休憩」
「いや、俺がこの時間帯においでよって言ったんだし。気にしないでよ」
アキさんは旅館で見かけるような冷蔵庫からお茶を取り出すと、喉を鳴らしてそれを半分ほど一気に飲んだ。
「過保護だねぇ」
「え?」
「成。ここまで送ってた。あいつ、あんなにマメな男じゃなかったんだけど」
「あぁ、あれは、違うんです」
あれは、俺がさらわれやしないかって。
櫻宮での父の発言は絶対だ。どんな国王の言葉よりも、きっと神よりも、父の言葉には絶大の力がある。だから兄たちはもう関わることはないだろう。
俺の肩が、治ったりしなければ。
櫻宮にとって、ひとつも利益にならないただの一般人でいるのなら。
きっとそんなところだろう。けど、菅尾さんのこともある。もう海外に行ってしまっただろうけれど、もう俺になんて興味はないだろうけれど、急に欲しくなったと思ったら、またその衝動に駆られるかもしれない。
俺にも、久瀬さんにも、あの界隈の人たちは理解できないから。
「愛されてるのね。お互いに」
「……はい」
その心配を抱えてでも、久瀬さんはアキさんのところで肩を診てもらおうかと思うんだと言ったら、喜んでくれた。
俺の愛している人が、俺を愛してくれるから、大切にしたいって思ったんだ。
「じゃあ、始めよっか」
「宜しくお願いします」
この肩が壊れた時は、これでもうクライミングはしなくてよくなると、むしろホッとしてしまうほど、自分の肩のことなんてどうだってよかったのに。
「うち、カイロプラクティックだからさ……ちゃんとした整形外科みたいなことはできないけど」
「……はい」
「でも、肩、そこまで悪くなってないと思うよ?」
「……え?」
「んー……」
アキさんが困ったように眉根を寄せて、ウイッグをつけていない、地毛をかき上げた。
「日常生活、できてた? その当時」
「えぇ……できて、ました」
「クライミングの時だけ?」
「……はい」
一通り施術をしてもらうと身体が軽くなったように感じた。ふぅって、一息ついて、医療用の硬いベッドに腰をかけると、簡易的な丸椅子にアキさんが座って、自分の膝に肘を置く。
「心的な部分から来てたものが多いと思う」
「……心的」
「たぶんね」
「けど!」
主治医はたしかに肩の故障を告げていた。全治までにかかる期間を教えてくれて、それがオリンピック選考対象の大会に丸々かかっていたから、俺はホッとしたんだ。
「きっと櫻宮稜としてクライミングをするとなれば、また痛むと思う」
これでオリンピックには出ないで済むと、ホッとした。
「心が嫌がったから、身体が拒否してたんだ」
「……」
「骨も筋肉も、触れても痛くなかったでしょ? 君がクロたんになってからの数ヶ月で治ることは治るだろうけど、でも何のケアもせずにいた」
アキさんのお兄さんのところでやたらと重い家具を運んでいたのが気になってはいたんだって。
「それは!」
「うん。君が気をつけてはいたんだろうけど、それでもちっとも痛くなさそうだったよ」
痛くは、なかった。なかったけど、でも、クライミングの時は。
「きっと、君がまたクライミングをしたいと思ったら、できるよ」
「……」
「したい?」
したい? ――どう、だろう。クライミング。
――お前どうすんだよー。あんなとこ取れねぇじゃんかー。
あの時、公園で、子どもたちが見上げてて。
「あ、ごめん。ちょっと電話」
「! あ、はい」
アキさんは丸椅子から立ち上がると、俺に背を向けて、電話に出た。
「もしもし? 何? ……え?」
取ってあげたんだ。木の枝に乗ってしまったボールを。剪定で少し残っていた、枝が、ストーンみたいに、そのボールまでの道筋を作ってくれてたから。あ、登れるって思って、それで。
「クロたん……」
「?」
「聖司君、から」
「……え?」
考え込んでいた俺は意外な名前に顔を上げた。そしたら、アキさんがひどく険しい顔をしながら「成の電話で、聖司君から」って、そう言った。
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