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第61話 ドロリとしたヘドロ
久瀬さんのスマホで、聖司君から、アキさんに「そこに、クロさんいますよね?」っていう電話。
もう誰が何をどうしたのか、ごちゃごちゃするけれど、でも、手は緊張で冷たくなってしまった。せっかくアキさんに施術してもらったばかりなのに、ぎゅっと肩の辺りが強張る感じがした。
「……もしもし」
『こんにちはぁ』
聖司君の声だけれど、聖司君にしては異様にヘラヘラしてて、それなのに楽しくなさそうで、知らない人のようにさえ感じた。
『今、久瀬せんせーと一緒にいます』
「!」
『ねぇ、前に言ったでしょ? 愛なんてもの嘘っぱちだし、愛なんてなくてもセックスできるしって。試してみます? って』
愛がなくてもセックスはできる。愛なんて嘘。なら、そもそも愛なんてものはどこにもない。なくていい、嘘っぱちなものなんて、無価値だ。
『見せてあげますよ』
「……」
『くっだらないって』
「久瀬さんは今日打ち合わせだよ」
『知ってますってば、ねぇ、俺、愛人してたって言ったでしょ?』
そこで、知らない声が遠くから聞こえた。聖司って、名前を呼んで、そしたら、聖司君の声が俺の耳元で返事をする。ちょっと待っててよって、どろりと粘りつくような甘えた声で。
「聖司君?」
久瀬さんがいる? そして、そこにもう一人、誰か?
「クロたん? ね、なんか」
誰か、いる?
『前に話したの覚えてない? 俺が愛人やってた中にいた、いろーんな頭のおかしい奴ら』
「!」
『あはは』
違和感しかない笑い声。可笑しくも楽しくもないのに笑っている違和感の塊みたいな笑い声。
『そのうちの一人だよ』
低く、地面を這うような声で、聖司君がそう吐き捨てた後、さっきの、遠くにいた「誰か」に向かって、また甘ったるいヘドロのような声で、ねぇと声をかけた。ここのホテルの名前、なんだっけ? って。
『……聞こえた? そこのねぇ、えっとぉ、部屋番号は……』
心臓が動いたんだ。
「アキさん、あの、肩、ありがとうございましたっ」
「ねぇ! クロたん! 成、なんかあったの? なんで、聖司君がっ?」
「……」
心臓が、ほら、早くお前も動けって俺を急かす。
「聖司君、今日夕方、顔が腫れてたら、ごめんなさい」
「は?」
あの人のところに行けって、俺を動かす。
「クロたんっ!」
「後で、説明します」
ホテル、ここからなら、そう遠くない。タクシーとか捕まえてるほうがずっと手間だ。走ったほうが速い。
何がどうなってるのか。
久瀬さんは出版社に行くって言ってた。それで、ファンレターを受け取るついでに今年の仕事の打ち合わせをするって。なのに、なんで、そこから離れたところに? ホテルで打ち合わせだった? ううん。そうは言ってなかった。じゃあ、なんで? 聖司君と一緒に? 久瀬さんは今日、本当は誰と会う予定だった?
電話で何を話していたのかを思い出してた。
あの時の久瀬さんの様子は? 声色は? 嘘を――。
「っ」
嘘を、ついてなんかいない。
「……」
大丈夫。ちゃんと思い出せば、大丈夫だ。
あの人の声を、笑った顔を、手を、言葉を、ちゃんと思い出せば、ほら。
「……こ、こ?」
電話であのどろどろとした声が告げたホテル、それと部屋の番号。
ノック、すれば。
「……」
この扉の向こうは。
――コン、コン。
この扉の向こうには、久瀬さんが。
でも、ノックをしても返事はなかった。だから、もう一度叩いて、それから、久瀬さんを呼んでみた。
「……聖司君?」
久瀬さんを呼んでも返事がないから、今度は聖司君を呼んだ。それでも返事がなくて、もう一度、今度は少し強くノックをしたところで、扉の向こうから物音がした。扉の向こうだけれど誰かがこっちに来る微かに気配がして、他に何の音もしない、誰もいない、真っ直ぐに伸びる廊下にポツンと立っている俺は息を呑む。その音にすら、足音を、向こうの気配を邪魔されないよう、呼吸を殺すために口を閉じた。
「ここに、いるんだろ。聖司君」
「……」
「ねぇ、久瀬さんは? 久瀬さんはここにいる? ねぇっ」
「……」
「久瀬さんっ! 久瀬さん! そこにいますか? 聖司君!」
「……」
「っ」
なんで、出ないんだ。
「くそっ!」
扉は重そうな鉄製だ。ノックをした音が鐘の音だった。
「久瀬さんっ!」
でも、かまわずに、肩で体当たりをした。
「久瀬さん! 開けて!」
蹴って、ぶつかって、また蹴って。暴れて、向こう側にいる久瀬さんを呼び続ける。出てきてくれるまで。
「久瀬さんっ!」
「……今、開ける」
「!」
知らない声。中年だとわかるその声が静かにそう告げて、扉がガチャっと音を立てた。
「……」
出てきたのは声の人だと思う。中年の男性だった。ネクタイはせずシャツとスラックスだけの格好でそこにいて、俺を下から上まで舐めるように見つめ、フンと鼻を鳴らし、卑下た笑いを零した。
俺はその視線を撥ね退けるように細い廊下を突き進んで、部屋へと。
「お疲れさまっす。クーローさん」
そして、遮光カーテンで日差しを遮られ、間接照明だけで作られた薄暗い妖しげな空間の中、大きなベッドに久瀬さんがいた。シャツを肌蹴させた聖司君に組み敷かれた格好で。
「まだ、これからだったんだけど」
「……ン、ク……ロ」
「うん。そうだよ。貴方の可愛い猫だよ」
聖司君は妖艶に笑って、胸が重なるほど上体を低くすると、久瀬さんの耳元で、甘い甘いいやらしい声で「にゃぁぁお」と鳴いた。
「ン……」
久瀬さんの声が苦しそうだ。
「睡眠薬……催淫薬は、そこの人持ってなくってさ。自分の勃起用の分しかお薬なくて、使えないからさ。寝てて久瀬さん勃たないから、今、しゃぶってその気にさせるところだったんだ。もう少し後で電話すればよかった」
こんなに早く到着するとは思ってなかったって、足、速いんですねぇって、笑ってる。その聖司君の言葉を遮るように。
「須崎さん!」
ぴしゃりと、言葉と空気と、妖しい空間を斬れるように、大きな声でその名前を叫んだ。聖司君でも、久瀬さんでもなく、須崎と。
飛び上がったのは、俺の後ろで胸糞悪くなるくらいゲスの笑みを浮かべた中年男だった。
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