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第62話 愛人病

 呼んだのはこの現場を見学して楽しもうとしていた中年男の名前だ。 「な、どうして、私の名前をっ」 「須崎さん、知ってますよ。奥様はたしか薬学博士ですよね? 医薬品の社長をされている」  振り返ると、腹だけでなく指先まで丸い身体を震わせて、さっきまでのいやらしい笑い顔でなく、険しい表情でこっちを見つめている。 「奥様にこんなこと、知られたら、大変なんじゃないですか?」 「! な、なんでっ!」 「彼には一切関与しないでいただきたい」 「そ、その男のことは何も知らない! ここでっ、久しぶりに遊ぼうと誘われたんだ。とても趣向を凝らしたセックスを見せてやるからとっ! だから! 私はっ、聖司に言われてっ」 「うるさい」  一瞥すると、それだけですくみ上がっている。 「須崎さん、僕は、あの人だけでなく、その聖司君に一切、今後、関わらないでいただきたいと言ったんです」 「は? なんで、君がっ」 「だから、うるさいと言ったはずだ」  医薬品の会社を経営していて、睡眠薬でもなんでも手に入れることは可能だろう。愛人をしてた。聖司君は、この須崎っていう人の。 「ジャケットとネクタイは……これですか?」 「!」 「黙って。このまま静かに部屋を出ていけば何も言わないし、話さない」 「な、君はっ」  こういう人間のことはよく知っている。理解はできないけれど、わかりなくなんてないけれど、でも、こういう類の人間が何を考え、何に憤怒して、何に歓喜するのかを知っている。 「櫻宮……」 「!」 「という名前をご存知かと思うが?」  力で人を屈服させるのが大好き。そして、その力にいつも屈服させられている。 「貴方の会社に多少……なりとも出資している」  力の、地位の、奴隷だ。だから。 「わかったら、このまま、黙って、部屋を出なさい」 「!」  屈服させるのはとても容易なのも、知っている。  彼はそのままシャツとスラックス姿で、ネクタイとジャケットを手に持ち、何度かこっちを振り返りながら、怒るのではなく不安そうに立ち去った。 「……すげぇ、あの人の、知り合い?」  櫻宮が関わる人間の中の一人だった。誰も彼も、のっぺらぼうだったけれど、あの須崎って言う人だけは、兄たちが嫌っていたから逆に覚えていたんだ。どれも櫻宮にとって有益な素材のはずなのに、なぜ兄たちは嫌悪しているんだろうって、不思議だったから。  たぶん、彼は兄たちをそういう「いやらしい目つき」で品定めのように見つめてた。そりゃ嫌われる。あの人たちは櫻宮にとって使える人材に笑顔を振りまくけれど、それ以外の人間になど興味はない。ましてや、自分たち櫻宮の人間に性的視線を向ける奴なんて嫌いだろう。さっき、部屋に入る時の舐めるような視線で思い出したんだ。 「超金持ちなんだよ? あの人。ほら、前に話した、俺が誰か別の奴とセックスするのを見て興奮するへんたっ」  今度は言葉じゃなくて平手打ちで聖司君の言葉を遮った。 「……君はバカだ」 「……」 「聖司君」  思いっきり、本気の力でひっぱたいた。そんなことしたことないから、掌がびっくりしたようにビリビリと痺れて痛くて、涙が滲む。 「バカだよ……知ってるよ! クロさんにはわかんねぇよ。きっと」 「……」 「バカなのなんて、知ってる」  欲しいと思ったものは全て手に入らなかった。夢も、恋も、なんにも手に入らなくて、それでもって、手を伸ばしては掴んでくれた手にまた突き放されて、何度も、何度も。 「君がバカなのは、それじゃないよ」 「……」 「本当に欲しいものをそもそも間違えてる」  歌手になりたい、でも、才能が溢れた人なんてたくさんいて、自分にはその才能がないから、無理だった。  恋をしたい。愛されたい。でも、愛人になって、愛されても、それはいつしか終わってしまう。永遠からは程遠くて、愛も恋も作り物だった。時間が来れば終わってしまう、見終わって、月日が経てば忘れてしまう。ただの恋愛モノでしかない。  だから、全て、諦めた。  それをバカだと言ったんだ。 「歌うのが好きなら、歌うところなんてあるよ。作ればいい。好きなだけ歌い続ければ良い。誰の許可もいらない」 「……」 「恋は……したこと、あんまないから、わからないけど、そうたくさんはできない、と思う」 「……」 「俺も、久瀬さんが初めての恋をした人だから」  びっくりした顔をされてしまった。 「ははっ……けどさ、そんなの、そんなの! 相手もそうだなんてわからないだろ! クロさんには初めての人でも、この人にとってはただの一ファンでさっ」 「うん」 「ちょうど好みだったからとか、ムラついていうっていうだけかもしれないだろっ」 「うん」  びっくりした顔が今にも泣きそうに歪んでしまう。そして、叫ぶように否定の言葉を言う声は助けてって鳴く子猫みたいだった。 「一ファンってだけで、拾ってもらったんだ」 「……は?」 「何もかも捨てて、俺っていう、ただのちっぽけは奴になって、拾ってもらった」  財産も、服も、居場所も、名前も、記憶も全て捨てて、あそこで拾ってくれないだろうかと、願った。 「それで、捨てられたら、拾ってもらえなかったら……あんた、どーすんの?」  どうしてたんだろう。 「うーん……わかんない」 「……は?」 「全部捨てちゃって」  この人が拾ってくれたなかったら、どうなってたんだろう。 「久瀬さんが好きっていうのしか残ってなかったから」 「……」 「好きでいるだけ、じゃない?」  だって、もうそれしか残ってないんだから。 「……そんなの」 「あは、けっこう重いね。それに、なんかそう考えると、俺もバカだね」 「……そんな、勝てねぇ、じゃん」 「聖司君?」  君は笑った顔も怒った顔も、自分を嫌っている顔も見たけれど、泣いた顔は初めて見た。 「俺、クロさんがよかった」 「俺?」 「優しくて、一緒にいるとあったかいから、あんたは一途に想ってくれそうだから。だから、俺は、クロさんがっ、欲しかった。だから、邪魔だったんだ。この人が。この人がいなければいいって。この人がクロさんを裏切ればいい。そしたらって」  ポロリ、ポロリと、涙と一緒に言葉が落っこちていく。 「そしたらって思ったのに、そんなの、俺、勝てねぇじゃん」 「……」 「この人だからなんだって、この人だけが特別なんだって、言われたら、もう」  落ちて、聖司君の中から、ドロリとした雫がすっかりなくなったら、茶虎猫のようにふわりとした金髪がとても柔らかい色に見えた。

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