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第64話 溢れる朝

 ホテルからうちまでそう遠くはなかったけれど、まだ久瀬さんがふらついていたからタクシーで帰ることにした。  休めばよかったのかもしれない。  でも、いたいとは思わなかったんだ。とても豪勢な部屋だったけれど、俺も、久瀬さんも早く帰りたかった。  だから、ホテルのエントランスでタクシーに乗り込んだ。そして、車の窓の向こうを流れる景色をぼんやり見ながら、ふと、呟いた。  効かなくてよかったって。  寝なくてよかった、って。  本当に、ただ呟いたんだ。窓の外を流れる景色にホッとしたんだと思う。とても緊張していたから。だから、力が抜けた拍子に、安堵の溜め息と一緒に、思いついたことも口から零れただけの呟きだった。けど、それに答えた久瀬さんの言葉は。  ――あぁ、耐性あるからな。睡眠薬の。  思いもよらないもので。  ――昔な。書けなくて、怖くて、服用していた頃があったんだ。  その言葉にも、久瀬さんの横顔の穏やかさにも、胸の辺りがざわついた。 「久瀬さん、水」 「あぁ、悪いな」  タクシーを降りて、まだ足元のふらつく久瀬さんの横にぴったりとくっついて歩いた。うちに帰ってきたらすぐ、ソファではなく、そのままでいいからとベッドに寝かせた。とりあえず横になったほうが良さそうだったから。 「吐き気は?」 「いや」 「寒い? 暑い? あ、額に触ればいいのか」  冷たくなっていた俺の手が気持ち良かった? 額の上に手を置くと、ふぅ、って深く息をついて、眉間の皺が和らいだ。 「熱は、なさそうな気がする、んだけど」 「平気だよ。別に、風邪じゃねぇから」 「あ! 待ってて、水!」  鍵をテーブルに置き、慌てて水を取りにキッチンへ。  ――耐性があるからな。睡眠薬。  水を。  ――昔な。書けなくて、怖くて。  水を。 「っ、久瀬さん、水、飲んで」 「あぁ、悪いな」 「ううん。……ぁ、そうだ。服、服を。そのままじゃゆっくり休めない」  今、俺が怖い。 「脱がせてくれるのか? こりゃ。楽しいな」 「何言って」  考えると怖い。 「……バカ、なんて顔してんだよ」  気持ち悪い? ホテルの部屋にいたときよりも具合は悪化しているようだった。今頃になって睡眠薬が効いてきたとか? タクシー、そんなに揺れなかったけれど、体調の悪い久瀬さんにはそれでも車内の揺れは良くなかったのかもしれない。顔色があまり良くない。  それなのに、手を伸ばし、頬を撫でてくれる。 「っ、だって」  頭痛も眩暈も、全部俺じゃない。しんどいのは久瀬さんなのに、バカな俺は具合の悪い久瀬さんに心配をかけてしまう。気を使わせてしまう。  睡眠薬が悪いんじゃない。でも、それを飲まないと眠れないほど、夜に迷子になっていた貴方のことを思ってしまう。 「昔のことだ」  夜どうしても眠れなくて、服用していたんだと頬を撫でながら話してくれた。俺よりも体温の高いはずの貴方の指なのに、冷たい。寒そうで、慌ててその手に頬を手をぴったりとくっつけて、必死にあっためた。 「飲んでも、飲んでも、眠れない時は全く眠れない。毎日じゃないんだ。急に眠れない日がある。不規則な生活をしていたわけでもない。前日、昼過ぎまで寝ていたわけでもない。それでも眠れない。だから、その眠れない理由を考えては、また朝になってたっつう。そんな繰り返しだった。もう今はぐっすり眠れてる。お前が一番よく知ってるだろ?」 「……」 「お前と一緒にいるようになって、夜、眠れなかったことはない。あー……ある意味眠れなかった、っつうのはあるけどな」  可愛い寝顔が隣にあったからな、なんて笑ってる。 「拾われたのは、俺だよ」  違う。俺が、貴方に救われたんだ。 「才能のない俺は偶然小説を拾ってもらえただけなのかもしれない。まぐれだったのかもしれない。ほら、だから、今は書いても売れやしない。そんな考えに押し潰されそうだった」  違う。貴方の小説は、まぐれなんかじゃない。貴方の言葉はどんなものにも押し潰されることなんてない。 「お前が俺を助けてくれたんだ」  俺は――。 「クロ」  両手を広げて久瀬さんが笑った。だから、慌ててその胸に飛び込んで抱き締めた。 「ありがとうな」  初めてだった。 「あったけぇなぁ」  いつも俺よりずっと体温の高いこの人を温めてあげられたのは、初めて、だった。 「ふわぁ……はーぁ……」  眠そうな声。久瀬さんって、一人で暮らしてた時、どうやって起きてたんだろう。俺が起こさないと、ずっと、それこそ昼過ぎまで寝てるんじゃないだろうかと心配になる。そんなにたくさん、寝て。  ――全く眠れない。毎日じゃないんだ。 「! 久瀬さんっ!」  飛び起きた。そしたら、隣にいた久瀬さんがまだ寝ぼけているんだろう。俺の大きな声に驚くこともなくゆっくりと振り返る。 「……久瀬さん」 「なぁ……クロ」  よかった。顔色が良くなってる。表情もいつもどおり。眉間の皺もなくなってる。苦しそうな様子も、ない。 「なんで俺ら、裸なんだ? そんで、なんで、裸なのに下着つけてんだ?」  声も、普段のまま。眠そうな、寝起きの声。 「あ、えっと、昨日、久瀬さんが寒いっていうから、その、抱き締めて寝てたんだけど。それでも寒そうにして、たから」 「そんで裸になったのか?」 「寒い時にはそうするのがいいかなと……ここは雪山じゃないの、わかってるけどっ! でも、本当に昨日は具合がっ」  悪そうだったんだ。顔色もすごく悪かったし、苦しそうだったし。病院はいかなくていいって、大丈夫だからと頑なに嫌がるから、すごく困った。それでどうしようって切羽詰って、裸で抱き締めたら、表情が和らいだから、そのまま抱き締めてたんだ。 「襲ってもよかったのに」 「んな! で、できるわけないじゃん!」 「……悪かったな。心配かけて」 「久瀬さん」  俺をベッドに押し戻して、組み敷いた久瀬さんをカーテンの隙間から差し込む朝日が照らした。  そして、ベッドに縫い付けるように重ねた手は、いつもどおり、久瀬さんのほうがあったかかった。 「もう、平気だ」 「っ、うん」 「泣くなよ」  だって、怖かった。  貴方を失ったら、俺はもうきっと生きていけないよ。ねぇ、本当にそのくらいに怖かったんだ。  貴方の邪魔には絶対にならない。そう誓ってる。でも、俺の存在自体が邪魔になることが、もしもあったら、そうなったら、きっと俺は手を離してあげられない。 「久瀬、さんっ」 「……」 「久瀬、さんっ」 「綺麗だなぁ」  俺は貴方なしじゃ、生きていけない。 「綺麗だ」  呟いて、久瀬さんの温かい指が頬を鼻を、唇を、そして、睫になぞった。 「お前がいない朝なんて、無理だ」 「久瀬さ……」 「だから、ずっと」  ずっと、俺といてくれ。そう告げて笑った久瀬さんのほうがずっと綺麗だと、俺は思ったよ。

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