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第65話

 久瀬さんの体調は一晩ですっかり元に戻っていた。 「あ? あの、金髪少年がお前に何しようとしてたかわかってんのか?」  本当に元どおり。 「聖司君がどうこうしようしてたのは久瀬さんなんだから」 「だーかーらっ!」  睡眠薬盛られて、そのまま襲われそうになってたのは久瀬さんでしょ。だから、久瀬さんが聖司君のことで怒るのは当たり前だけれど、それは自分にされたことに対してであって、俺じゃない。そもそも俺は何もされていない。  いつもどおり、久瀬さんは少し乱暴な口ぶりで、俺に対しては過ぎるくらいの過保護で、そして、頭を撫でてくれる手はあったかい。 「もうちょっと自覚を持てって話だ。お前、綺麗なんだから」 「!」  元、とは違うかもしれない。久瀬さんのくれる俺への褒め言葉に、「綺麗」が加わったから。 「ちょ、もお、久瀬さんだけだよ」 「可愛いしな」 「!」  それに可愛いも健在。なんか本当に、あれみたいだ。飼い猫を溺愛して、帰ってくるなり「ナントカでしゅよー」ってデロデロに甘い顔をする主。 「久瀬さんだけだよ。そんなことを言うのは」  しかも連呼で。  照れくさくてしょうがない。こういう時、他所のお宅の猫はどうしてあんなに冷静沈着、平然としていられるんだろう、なんて本気で考えてしまう。昨日、ちょうど二人で見ていたテレビで、愛猫特集なんてやっていた。大事をとって、ゆっくり過ごしていた俺たちはそれをソファで眺めていたんだけど、どの猫も、可愛がられて当然みたいに普通にしてた。  って、あっちは本物の猫なんだけどさ。 「俺も行くか」 「は? ちょ、なんで? いいってば」 「いいんだよ。俺が、心配なんだ」  頭を撫でてくれる手は主のあったかさ。 「惚れてるからな」  唇をなぞる指は恋人の甘さがある。 「わかったか?」  俺は、黒猫で、この人の、恋人だ。 「本当に、すみませんでした!」 「……」 「俺、これからかちゃんとします!」 「……」 「取り返しのつかないことをしたって思ってます。反省したって、あの時、久瀬先生にしたこと、クロさんにしたこと、どれも許されないってわかってます。だけど、どうか、謝らせてください! 百回でも、千回でも、一万回だって、謝ります! お二人が許してくださるまで!」  一万回は……ちょっと、むしろ迷惑、かもしれない。 「お願いします!」  そう、腰を直角に曲げて頭を下げた。 「ぜひ! 宜しく! お願いします!」  意外だった。聖司君って、けっこう思考が体育会系なことに。まさか、こんなふうに謝罪されるとは思っていなかったし、まさか、そんな坊主に、イガ栗頭になっているとは思いもしなかったから。びっくりしすぎて、返事を忘れてしまう。そして、それを「許さない」という意思表示に受け取ったようで、必死に頭を下げて続けている。だって、驚くだろ? 初対面の印象がチャラすぎた。 「あ。あの……」 「はい!」 「えっと、その……」  実際、怒ってたんだ。久瀬さんにあんなことをしたんだから。俺の人だ。この人は、俺のもの。それに馬乗りになって、襲おうとするなんて、本当に怒ろうと思ってたんだ。  バチン、と、それこそビンタでもして、怒って、そして、今日から根性入れ替えてやり直せと叱咤激励をするくらいのつもりでいたんだけど。 「その頭、すごいね」  もう怒りなんて、どこかに転がっていってしまった。 「はい! 自分でやりました!」 「あ、うん。そんな感じがした」  だって、どう頑張ってもお世辞が使えないくらいのイガ栗だ。今時の小学生、いや、幼児ですらもう少しカッコいい髪形にしていると思う。本当にただバリカンで刈っただけ。 「い、痛くなかった? それ」 「痛かったです! 髪、長かったんで! 絡まったりして!」 「だよね。それに寒かったでしょ」 「寒かったです! でも、反省なんで、帽子等はかぶりません!」 「……被れば?」 「いえ!」  寒さもそうだし、変だから、被ったほうがいいよ。絶対に。可笑しいよ。そのモデル並みに整った顔に栗頭はちょっと、反則だ。 「っぷ」 「久瀬さん?」 「久瀬先生……」  ほらね? 反則技だ。 「あはははは。いやー、本当は、うちのクロにもう一切手を出すんじゃねぇぞって言いたかったんだけど」  久瀬さんだって、怒りをどこかにやってしまうほど、その坊主頭は反則だよ。 「あ! いえ! そこは、これからです!」 「あ?」 「俺、こっから頑張ります!」 「あぁ?」 「クロさんが振り向いてくれるくらいの、良い男になるんで!」  きっと見た目にすごく気を使っていたんだろう。根元までしっかり染めていた金髪メッシュは刈り取られて、地毛の黒色と縞々模様を作っていた。本物の茶虎猫みたいに。 「わかってます! 今は全然です! なので、今日、カウンターから見ててください! 貴方に聴いて欲しいんです」 「……」 「俺、歌うんで」  うたいたいと思うのなら、歌えばいい。 「歌うのが好きなら、どこででも、歌えるって、そう、言ってくれたの、ずっと忘れません」  さすが歌手だ。よく通る澄んだ綺麗で伸びやかな声でそう告げると、大きな口を真一文字にして、その唇の端だけを上へ向かってあげて笑う。君らしい、明るく、楽しそうで魅力的な笑顔だった。  どこででも、歌いたいのなら、歌うべきだ。誰にも制限されることなんてない。誰の許可もいらない。歌は、自由だ。  拍手喝さい。  アキさんのお店で、楽器なんてないこの酒場で、ただひとり、壇上に立ち、アカペラで歌う。持っているのは、その声だけ。 「すごおおおおおおい! いいぞー!」 「聖司くーん!」  君の歌はとても素敵だった。 「なんかなぁ……」 「久瀬さん?」 「お前は芸術の女神みたいだな」 「……お、俺?」 「すげぇ歌だったな」  君はとても楽しそうに、のびのびと歌っていた。見ている側の心を動かす歌って、初めて聴いたんだ。 「クロさーん!」  こっちに向かって手を振る姿は眩しくて、俺は目を細めながら、誰よりも大きな拍手を聖司君に送った。

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