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第66話 貴方の黒猫
「さっむいなぁ」
久瀬さんが唸りながら、肩を竦めた。
「寒くないか?」
「ううん」
だって、俺の右手は貴方にあげた手袋をしているからちっとも寒くないし、左手は貴方と繋いでるから、それこそ、寒くない。
貴方は猫の俺よりずっとあったかいから。
「今夜は冷えるって言ってた」
だから、朝、洗濯物を干したら、その場で凍りつくかもしれない。俺、知らなかった。真冬の洗濯物ってさ、干したそばから凍ることがあるんだなんてこと。
俺は、知らないことだらけだった。
「でも……星が綺麗に見えるよ」
黒猫になれたあの日の空を見上げておけばよかったぁって、思った。
あの時は、そんなの見る習慣なんてなかったんだ。空を見て、星を探すなんてこと、しようともしなかった。空にさ。
「クロはロマンチストだよなぁ」
星があるなんて、知らなかった。
「恋愛小説家の久瀬さんより?」
寒いからと、手を繋いで、手袋をはんぶんこしてくれた貴方よりも俺が、なの?
「あぁ、ロマンチストだよ」
黒猫になる前の俺は、山のような人と挨拶をして、お辞儀をして、会話をした。櫻宮の一部として、ブリキの人形のように、いつでも、笑って、カクンカクンって頭を動かしてた。
本当に、山のような人と話しをしたはずなのに、挨拶を交わしたはずなのに、ほとんど覚えていないんだ。
全部がモノクロに限りなく近い褪せた色をしていた。
黒猫になってから出会った人はそう多くない。それなのに、笑った顔、怒った顔、心配させてしまった顔、とにかくその人、ひとりひとりの表情を覚えてる。話したこと、爆笑したこと、たくさん交わした言葉を覚えてる。
世界の色は、とにかくキラキラしてる。さっきまでいた場所は派手な赤。とても鮮やかで、眩しくて、元気になる赤い色。他にもたくさん色があっちこっちにちりばめられている。それが今の俺の毎日。唸ってみたり、怒ってみたり、笑ってみたり、忙しい。
「だって、恋愛小説家の愛猫だもん」
「…………なぁ、クロ」
「はい?」
ふと、久瀬さんが足を止めた。
今、ここには星空のすごく黒に近い青色と、星の色、それから家々を照らすオレンジ色の明かり。それから、月と同じ色をした俺の瞳。
俺は、その瞳で、立ち止まった久瀬さんを見つめた。
「稜って、呼んだほうがいいか?」
「……」
それから、久瀬さんの長い髪と俺を真っ直ぐに見つめる瞳の黒色。
「今だけのことじゃない。これからずっと……の話だ」
「……」
「なぁ、お前はなんて、呼ばれたい?」
ずっと、それはとても幼く可愛い単語だけれど、とても深くて大きな言葉。
「わかってるか? 俺といたって、金持ちにはなれない」
貴方が話す度にふわりと広がる吐息の白。
「…………クロ、だよ」
「……」
「俺は、貴方のクロだ。ずっと、これからもずっと、そう呼んで」
「……」
「久瀬さん」
一生、ずっと、俺は、クロだ。貴方の、クロ。
「……クロ」
ずっと、ずっと、そう呼んで。そしたら俺は、甘く、柔らかい声で鳴いて返事をするから。
「クロ」
「ン、ぁっ」
首筋にキスをされるだけでも呼吸が乱れるくらいドキドキした。なんかさ、だって、今日の久瀬さん、いつもより。
「クロ」
いつもより、キスが甘くて優しい。
じんわりと熱を舌先から移し合うみたいに、ゆっくり口の中を柔らかくほぐされるてくみたいな、そんなキスをするから。
だから、「何?」そう、見つめるこの人に尋ねるだけでも胸が高鳴ってしまう。顔が熱くなって貴方の懐にいる俺は俯いてしまう。
「あんまりまともに考えたことがなかったんだ」
「……え?」
「恋愛の将来性っていうやつを、な」
「……」
いきなりすぎて、驚いていると、これぞ鳩が豆鉄砲食らった時の顔だなって、笑われた。
「ゲイ、っつうのもある」
「……」
「それと、まぁ、小説家としての自分が不安定だっていうのも、ある」
「……」
「絵空事、だったんんだ」
恋愛は、夢物語だった。
そんな綺麗なもんだけじゃねぇだろ。結婚? 同棲? そこには綺麗なモンばっかを飾り立てたりなんてできっこない。飯食って、風呂入って、トレイだっていく。寝て起きて、寝癖に驚くことだってある。寝顔を見て至福の時間なんて、仕事が立て込んでりゃあるわけない。洗濯、炊事、掃除。
リアルはそんな綺麗じゃねぇ。
そう言って久瀬さんが笑った。
「言われた」
「?」
「あぁ、愛しの黒猫、あれを編集に持って行ったらな、言われたんだ」
――何か心境の変化でもあったんですか?
「文体が変わったわけじゃない。間の取り方、展開の運ばせ方に変化があったわけでもない。けど、文章が生き生きとしてるって」
「……」
「いや、むしろ、生き物を書いてるって、そう言われたよ」
久瀬さんが、ふと笑った。よくそんなふうに笑うんだ。執筆中に、本当に「ふと」後ろにいたり、パタパタと周囲を歩く俺のほうを見て、そんなふうに笑う。
「俺は臆病でな」
「……」
「好きになった奴に無様なところを見せられないと思ってた。その分、相手の無様なところも見たくなかったんだろうな。不恰好なとこ、とかな」
だから恋愛が長続きしたことはない。別れたいと言われればすぐに別れていたし、追いかけることもしなかった。
「さっきもそれが出たな」
「さっき?」
「あぁ、クロ」
さっき、帰り道のこと? 櫻宮稜として、いくらでも自由のある、一人の男でいたいか、それとも、貴方の黒猫として、貴方と生きてくこと以外なんていらない黒猫として、生きていきたいか。
そんなの決ってる。
「愛してる。クロ」
貴方なしで、俺は生きてなんていられないんだから。
「一生、一緒にいてくれ」
執筆中の貴方はふと、俺を見て笑うんだ。
ねぇ、知ってた?
「うん。一生、貴方といる」
そうして笑った後、必ず貴方が俺の顎を撫でてくすぐってくれる、それがたまらなく幸せで、どうしようもなく愛しい時間なんだ。一生、そうやって側にいさせて欲しいって、俺こそずっとずっと願っていたんだよ。
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