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第68話 クライミング

 今、クライミングのコーチをしてる。 「やばっ、久瀬さん! 俺、今日は帰りが夕方だから、あ、あと、夕方から雪かもって言ってた! もし降ったら、洗濯物、お願いしていい?」  もちろん、俺はクロのままでいる。 「いってきまーす!」  リビングからのんびりとした声が「いってらっしゃい」と答えてくれた。  経歴が経歴だから、電話をしたら本人かどうか疑われてしまったけれど、履歴書を送ったら、オーナーからじきじきに電話がかかってきた。基本、俺にかかってくる電話なんてないから、久瀬さんが出て、そして、すごい笑うのを堪えてた。電話の向こうでなんか大騒ぎになってるぞ、お前って。  クライミングスタジオはそうたくさんあるわけじゃなくてさ。通勤には電車を二回乗り継いで、少し遠回りをしないといけないんだけど。昼間だし、交通費全額支給だし、何より、楽しいから。  今日で、コーチの仕事を始めて一週間になる。 「……稜」  その名前で呼ばれることはほとんどない。職場であるクライミングクラブでもあだ名ってことで「クロ」って呼んでもらっているから。  だから、そっちの名前を呼ばれて、自分ではないと、一瞬返事が送れた。 「……久しぶりだな」  それ、俺のこと? そんな感じで振り返ると、兄がいた。櫻宮家の次男で、俺の兄で。 「少し話をしたいんだが」 「あー、あの、俺、これから仕事で」 「……送っていく」 「……」  久瀬さんの小説という財産を盗んだ人が、そこにいた。 「お久しぶりです」  大嫌いだった。 「……あぁ」  ここが。ここの人間のこういう顔が、とても大嫌いだった。 「元気にして、いるようだな」 「……はい」  でも、今、そこまで嫌悪していない。 「……須崎という男」 「あ」 「何かあったのか?」 「あー……すみません」  あったというか。何もないようにしたというか。まぁ、あの時、自分で「櫻宮」って名乗ってしまったんだけど。 「何か、ありましたか?」 「……いや。とくにない。別にかまわん。たいした損害ではない」  あったんだろう。何かしらが。けれど兄はそれ以上須崎のことは何も言わなかった。ただ、スッと背筋を伸ばしたまま、車の背もたれに寄りかかっていても、あまりリラックスしてなさそうな、綺麗な姿勢で車外を流れる景色を眺めていた。 「久瀬成彦、とは仲良くやっているのか?」 「……」 「いや、別に答えなくていい」  景色を眺めたまま、斜め後ろに近い横顔は特に笑うわけでもないし、怒るわけでもない。そして、嫌悪をしているわけでもなさそうだった。 「もう少し、その、女々しい感じになっているかと思ったんだがな」 「え?」 「その、お前が……いや、なんでもない」 「……」 「別に、同性愛を差別するとかではない」 「違うんですか?」  違うに決ってるだろう! って、断言されて少し驚いてしまった。そういう差別なんてくだらないこと、と捨てるように呟いてた。この人はそういうことへの偏見がすごくある人だと思っていたから。母のことも嫌っていたし、なんというか櫻宮のことしか頭にない感じの人で、恋愛なんてものはその単語すら知らないような。政略結婚を好んでしそうな気がしていたから。でも、違うらしい。けれど、母のことは嫌っていたのはたしかで。 「男を誘うような、そういう感じなんだろうと思っていた」  もしかしたら、違うのかもしれない。 「だが、久瀬成彦がな……」 「久瀬さんが?」  ――あんたはあいつの何を見て来ましたか? あいつと五分でも話したことがありますか? あいつの好きな飯を知ってますか? 「お前という人間を知っているのかと、訊かれた」 「……」 「答えられなかったよ。そして、それならば私はどんな人間なのだろうと、ふと思ったんだ」 「……」 「まぁ、私の道はこの先も今までどおり変わることはないがな」  この人の守りたかったものは「櫻宮」だ。  だから、その櫻宮を巣にして、自分の子どもを育てた、母が嫌いだった。そうして育った俺が嫌いだった。この人の出した答えはどこから見てもあの家なんだろう。  俺の丸ごとを久瀬さんに捧げたように。 「お前は、そうか」 「……」 「そういう顔をしていたんだな」  ようやくこっちを見た。 「私が間違っていたようだ」 「……」  そして、笑っていた。 「……ここで大丈夫か?」 「え? あ、はい」  気がつけば、クライミングスタジオについていた。電車だと遠回りだけれど、車なら三十分くらい。ショートカット、最短でいけるんだ。いつか自転車で通ってもいいかもしれない。肩も痛くはないわけだし。 「あの、ありがとうございました」 「……いや」  車を降りて、お辞儀をすると、じっと、兄が俺を見つめていた。一度、口を開きかけて、でも、言葉が見つからなかったのか、きゅっと結んで、そして、もう一度。 「仕事、頑張れ」 「あ、ありがとう、ございます」 「それだけだ」  本当にそれだけだった。 「……」  本当にただそれだけを話して、兄はまた仕事へ向かったんだろう。 「……クライミングスタジオの住所、言ってなかったのに」  あの人が調べた、とは思えない。興信所なんて使うわけがない。クライミングでまたオリンピックを目指すのなら櫻宮の名前を使わせようと思って……いや、それもないな。もしもそれを思ったのなら、その話をしてくるはずなのに。クライミングのことは一切訊いてこなかった。 「久瀬さんってば……」  話したのは、ぽつりぽつり、三十分もある移動の間でそうたいした話はしなかったけれど途切れ途切れの会話だったけれど。そのどれもが。  元気にしているのか?  その短い言葉、会話ひとつずつで、そう訊かれているような気がした。 「仕事、頑張れ、って言われちゃった」  知らなかった。 「……はい。頑張ります」  あの人が笑ったりするなんて、知らなかった。いつも難しい顔をして、背筋は常に真っ直ぐでスーツの皺ひとつないような、疲れやしないだろうかと疑問になるような、硬い人だと思っていた。  あの人も、笑うんだ。  気がつかなかった。わかっていなかった。  俺は何を嫌っていたんだろう。ここは嫌いな場所だって、嫌いな人たちだって思っていたけれど、俺は、あの人たちのことを、あそこのことをどこまで知っていたんだろう。俺は、ちゃんとあの人たちのことを嫌っていたんだろうか。  嫌っていたのは、俺自身だったんじゃないだろうか。  だって、俯いていたら、周りなんて、何も見えやしない。 「っていうか、本当に自転車、買おうかな」  自分の足元しか、見ていなかった。そう気がついた。 「筋肉ついても、久瀬さん、可愛がってくれるかなぁ」  夕方から、雪になるっていってたけれど、やっぱり降らない気がした。だって。 「おでんじゃなくて、カレーとかにしとけばよかったかも」  そこまで寒くない。むしろ、俺の掌は久瀬さんの掌みたいにあったかかった。

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