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第69話 主と黒猫、愛と幸せ
寒い寒い冬の夜、みすぼらしい猫が一匹、家の前にうずくまっていました。ねぇ、あんた、拾ってくれないか? そう。切に願いながら、その黒猫は抱き上げくれる手をずっとずっと待っています。
誰でもいいわけではありません。
拾って欲しい人がいるのです。
その人のことが黒猫は好きで好きで、たまりませんでした。
「櫻宮コーチ、コーチ……櫻宮コーチってば!」
「!」
目の前にひょいっと現れた女の子が、その場でジャンプをして、鼻先が激突するかと思った。
「もおおお! コーチ!」
「ご、ごめん」
びっくりした。今、レッスン中だった。
「コースがわからないんです。コーチヒント!」
「うん。あのね……」
櫻宮稜、二十歳、クライミングでオリンピック候補にも選ばれた元選手。今は、電車で二十五分歩いて五分のところにあるクライミングスタジオでインストラクターをしている。
生徒は子どもから、主婦の方まで色々。教え方は……。
「なるほどー」
そんなに不評じゃないと嬉しい。
この元気な女の子、半年前から始めたらしいんだけど、体幹がいいんだ。とても。だから、教え方一つでぐんぐんレベルアップしてる。登っていくのが楽しいらしくて、難しいコースばかりをやろうとするから少しだけ危なっかしいけど。
「コーチー! 今のコースは?」
オッケーのサインを出したらとても嬉しそうにその場でジャンプをした。
「はい。じゃあ今日はここまで」
「はーい」
「ラスト、しっかりストレッチをしてください」
「はーい」
じゃないと、肩を壊してしまうからと、毎回言われて少し飽きているその子がつまらなそうにその場に寝そべった。
久瀬さんの執筆は――。
「あ、ねぇ、コーチコーチ」
「んー? ほら、膝曲がってる」
「あの、大きい人ってー」
「大きい人?」
あぁ、久瀬さんのことか。大きい人、って、まぁ、合ってはいるけどさ。大きい人、だけど、もっとこうカッコ良い人とか、イケメンとか、色々。
「小説家さん、なの?」
「え? あぁ、そうだよ。お話を書いてる人」
「知ってる! そういうの小説家っていうんでしょ。私も書いてるんだー。お話」
「へぇ、そうなんだ」
「うん」
そこで彼女ははにかんで笑いながら、ほっぺたを真っ赤にした。
「お話が上手く書けるコツってなんだろー」
「なんだろうねぇ」
「うーん」
「あ、でも、ひとつ、俺も知ってるコツがあるんだけど」
「うんうんっ」
パッと表情を明るくして、彼女が赤くなった頬をもっと赤く染めながら、期待を込めた視線をこっちに向ける。
そして、その期待に応えるべく、こっそりと、彼女にだけ教えてあげた。
「なるほどー!」
「執筆、頑張って。未来の先生」
俺はあの人のファンだから。あの人のことだけならよくわかってる。その久瀬成彦という作家の書き方まで、ね。
「あ、あと、クライミング。背筋のトレーニングも頑張って」
少しさぼってたでしょう? と、元トップアスリートの厳しい目を光らせると、彼女が「はーい」と気まずそうに返事をした。
レッスンは彼女でおしまい。今日の仕事は完了だ。
着替えて、タイムカードを押して、外へ出た。
「……お疲れ」
「駅待ち合わせでいいのに」
「いいんだよ」
猫可愛がりで、俺を甘やかす貴方の懐へと帰る。
「ほら、クロ」
「……大事な指がかじかんじゃうよ?」
「あぁ、だから、早くあっためてくれ」
久瀬さんは笑って、その左手の黒い革の手袋をして、右手用のを俺に手渡す。手袋のない手は、ほら、繋いでしまえばあたたかい。
俺は変わらず、この人の黒猫だ。拾ってくださいと自ら、この人の足元に座り込んだ黒い猫。
俺は恋愛小説家の愛猫。
だから、ひとつだけ、さっきの彼女に教えてあげられることがある。この人の小説が何より大好きで、発売を指折り数えて待ってしまうファンでもあり、誰より近い場所にいる愛猫の俺だからこそ、教えてあげられることがある。
最近のこの人の小説は優しくて、甘くて、あったかくて、そして、ワクワクしてくる。ドキドキするんだ。
――楽しみながら書くといいよ。自分が世界で一番楽しんで書くんだ。
少し笑い顔になるくらい、楽しみながら書くといい。最近の久瀬さんはそうだから。
すごく、楽しそうに書いているから。
「こーら、歩きスマホはダメだろ」
「んーちょっとだけ」
「現代っ子」
「ちょっとだけだってば」
今日は月曜だから、変わるんだよ。ランキングがさ。
「あ! 久瀬さん!」
「んー?」
ねぇねぇって、繋いだ手をこの人のチャコールグレーのポケットの中で暴れさせた。なんだよって、仏頂面なこの人を強引に引っ張ると、今、調べたばかりのランキングを見せる。
毎週月曜、その週の小説売り上げランキングが入れ替わる。
先週、久瀬さんの新作が発売されたから。
「ほら! 見てみて!」
「……」
「十一位!」
ランクインしてるのチェックしたかったんだよ。お昼の十二時に更新だから、その十二時からずっとレッスンが詰まってた俺は今ようやくチェックできたんだ。
「へー」
「ちょっ、すごいことだよ! もっと喜んで!」
「って、お前、この前は二十五位でも大喜びしてただろ」
いいんだ。ランキングなんて何位でも嬉しいよ。二十位でも百位でも、いつでも、貴方の作品が生まれることが嬉しいんだから。
「ったく」
「すごい!」
「おい、クロ」
「?」
今度は貴方がポケットの中で俺の手を握って暴れる。
「ランクインのご褒美はないのかよ」
「……あるよ」
この人は拾った猫に贅沢ばかりをさせる。今夜もそうだ。今夜はとても大事な日。あのときと同じように寒くて、凍えるほどの冬の一日。
黒い長袖のTシャツ一枚じゃどうしたって寒くて、そんな格好をした、名前も捨てて、何も持っていない黒い猫を見つけたら、つい拾ってしまいたくなる。そうして拾った猫と暮らしたのが去年の今日。
その一年で拾われた猫はふてぶてしくも、主のベッドで気持ち良さそうに寝るようになった。主には甘えてばかり。そして、主は甘やかして、溺愛して、欲しがるだけ与えてあげるばかり。
そんなふうに喜びと幸せを教えてもらった黒猫は、もっと愛されたいから、もっと貴方にだけ可愛がられたいと、また甘えるんだ。可愛く啼いて、尻尾を主に巻きつけて、全身を預けるように擦り寄って。
「あとで、たくさんご褒美を」
その頬に、キスをする。
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