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雨の日イチャイチャ編 4 目に毒

 うっかりしてた。 「おかえりー」 「……ただいま」 「梅雨入りって言ってたわりには、毎日、よく晴れてんなぁ」  駆け引きって、いつまでしたらいいんだ。  腹ペコくらいでちょうどいいって言ってたけど、久瀬さんの腹ペコがすごくまだ先のことっぽいんだけど、そういうのどうしたらいい? 「……うん」  クライミングのコーチの仕事から帰ってくると久瀬さんは執筆に励んでる。長い髪を、この頃は暑いからとずっと束ねてて。 「洗濯物がすげぇ乾くわぁ」 「……うん」 「梅雨すっ飛ばして夏だな」 「……」  ずっと、束ねてて、うなじが色っぽくてドキドキする。心臓にも腹にも、すごく良くない。あと――。 「目に毒……」 「クロ? なんか言ったか」  思わず、呟いてた。 「なっ、なんでもない! は、走りに行って来るっ!」 「今から? お前、今帰ってきたばっかだろ」  大丈夫。元々トレーニングでそのくらいの運動はしてたし。今、電車通勤だから、むしろ走り込みくらいしないとダメなんだ。生徒に体力でも筋力でも負けてたら、コーチとして失格だから。 「行ってきます!」 「……あぁ」  久瀬さんにバレないように色々な理由をくっつけて走りに向かった。仕事の着替えとかを放り込んであるリュックだけを玄関先に置いて。クライミングの仕事の時、行き帰りの服装はそもそもラフで動きやすいものにしてる。だからそのまま走りにいけてしまう。  でも、本当は体力云々とか、トレーニング不足とか、そんなことじゃなくて、ただ、その。 「……ムラムラする」  口元を手の甲で拭いながら、ぼそりと呟いた。  ずっと、お腹の底のところが熱いんだ。熱いっていうか、熱が溜まってる感じ。 「っ」  もう俺は腹ペコ。  喉、じゃなくて身体がカラカラ。  けど、久瀬さんはそんなことなさそう。涼しげな顔をして、執筆してる。俺は久瀬さんの執筆指定席の背後にあるソファでじっとうなじを見つめるだけで、飢えた狼みたいになりそう。うなじに噛み付いて、キスしたくなるくらい。  でも、我慢してる。俺の中にあるルール、久瀬さんの執筆の邪魔はしない。なのにそれを簡単にブチ破ってしまいそうなくらい、ムラムラしてる。  久瀬さんとしたくてたまらない。  なのに。  なのにっ。  久瀬さんは長編の執筆が終わったばかりらしくて、ふわふわ綿毛のたんぽぽみたいに欲がゼロっぽくて、ずっとのんびりしていて朗らかだ。  それにずっと、ずううううっとうちにいるから。  だから、俺は一人で慰めることもできず、積もっていく欲求に爆発しそうで。けど、うちには久瀬さんがいて――。  ――毎回やるばっかとか、やだったけどさー。とりあえず付き合ってあげてた。  飽きられたら、やだから。  ――恋は駆け引きよ。  昨日、ちょっとだけ、しそうかなって思った。  キッチンで俺が料理してたら、久瀬さんが背後に来てて、そんで、腹ペコな俺は意識しすぎて、目すら見れなくて。  ――クロ。  俯きながら振り返ったところでキスされた。  あの瞬間、ぶわりと腹の底んとこで積もっていってた熱が暴れたけど。  ――今日の飯用に、肉味噌ダレ買ってきた。  じっと見つめられて、期待に躍った胸に託されたのは肉味噌ダレで。  ――俺! ちょっと! レタス買ってくる!  焼き肉にするんならレタス必要でしょ? って、言い訳くっつけて走りに行ったんだ。セックス、まだ、久瀬さんは腹ペコじゃないっぽいから、我慢して、飛び上がって逃げ出した。  キス、したのは失敗だ。  唇が触れたら、急に口の中が乾いて、そんで、また積もってしまった。熱が、腹の底んところに。それをうやむやにしたくて、運動でどうにか解消したくて。したくて、したくて。  したくて。 「よぉ、おかえり、クロ」 「……た、ただいま」  したいのを誤魔化すために走ったら。 「お前、どこまで走りに行ってんだ?」 「えっと、駅五つ分」 「はぁ?」  ものすごい遠くまで走ることになって呆れられてしまった、っていうのがここ数日続いてる。 「はい。じゃあ、今日のレッスンはここまで」 「はーい」  ずっと教えてる女の子が、少しつまらなそうにクールダウンのストレッチを始める。  俺が教え始めたのが冬だった。その時で習い出してから半年って言ってたっけ。そしたらそろそろ一年だ。 「……小説、今も書いてるの?」 「えー? 書いてるー」 「へぇ、すごいね。学校もあって、クライミングもあって、忙しいのに」 「うん」  あ、背筋のトレーニング頑張ってるんだ。クライミングの時も、今までだったら掴めても、自身の身体を持ち上げられなかったのが、最近、しっかり上げられてる。ストレッチした時、背中のラインがしっかりしてたから、わかる。すごい頑張ってるって。 「……ちゃんと続けてるんだ」  小説も、トレーニングも。 「うん」  飽きたり、しない? 「どっちも好きだから」  彼女はそう答えて、スクッと立ち上がった。 「でも、小説はちっとも上手くならない気がするー。っていうか国語、あんま得意じゃないし。あ、けど、読んで勉強してるんだー。久瀬先生の新作ちょおお、楽しみっ」  少しだけ、背も伸びた、かな。前は僕の胸の辺りだった気がするんだけど。 「ありがとうございました。櫻宮コーチ、さようなら」 「さようなら」  彼女は一つ背筋を伸ばすと、鞄の上に置いていたカーディガンを羽織り、外へと向かった。今日も雨降らなかったーって呟きながら折り畳み傘を振り子みたいに振りながら、親御さんが迎えに来る車を待って。日は、冬に比べるとグンと伸びて、まだ夕方。 「げ、今日の晩御飯、餃子、明日学校なのにー」  スマホを見てそう呟いた。 「櫻宮コーチは? 明日」 「……休み、だよ」 「そっかー。よかったね、これなら、晴れそうじゃん」 「……うん。そうだね」  梅雨入りしたはずなのにちっとも雨が降らなくて、暑い日が続いてる。暑くて、熱くて。 「また、来週―! コーチ!」 「うん。さようなら」  明日も暑いのかな。それなら冷しゃぶサラダとかがいいかな。さっぱりしてて、夏野菜たくさんにしたら、身体が、少しくらい冷めてくれるかなぁって、思いながら、夏みたいな夕暮れの空を見上げた。

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