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寝てる後ろで……編 1 黒猫が人間だった頃のお話

 それは、突然だった。 「もしかして、稜……クン?」  一瞬、誰を呼んでるのかわからなかった。 「稜クン」  本当に一瞬、それが自分の名前だってことをすっかり忘れてしまっていた。だって、ちょうど今、久瀬さんに愛猫クロは「もう少ししたら帰ります」ってメッセージを送ったところだったから。  今日はクライミングのところの大会があったから、打ち上げを兼ねた食事会があった。生徒さんも一緒に食事して、未成年はそこで解散。社会人の生徒さんとスタッフとコーチ陣でアルコール有りの飲み会で。 「んもー、まさか、ぽかんとされるとは思わなかったぁ」  その帰りだった。 「……元気?」  いきなり本名で呼ばれて反応が遅れた俺の目の前でぴょこんと跳ねた一人の女性。驚いて、目を見開いたら、少し酔っていたのか、その女性が自分のハイヒールのよろめいて、慌てて俺が腕を掴んだ。  今度は女性がびっくりして、そして、アルコールが残っていそうな赤ら顔でふにゃりと笑って。  稜クン。  そう、また俺を本名で呼んだ。その女性は、前に付き合っていた彼女だった。  大学入ってすぐの頃、新歓コンパとして開かれたバーベキュー全科参加のイベントで出会ったんだ。声をかけられて。 「ふふ……なんか、初めて会った時みたいだね」  たぶん、内緒で飲酒していた人もいたんだろう。ほぼ宴会の雰囲気の中、ウーロン茶をちびちび飲んで、周囲の酔っ払った雰囲気に乗りきれずにいた。  そんな時、急に隣に座った彼女がひょこっとお辞儀をした。今よりも長かった髪がその拍子に揺れて、彼女は何度は髪を耳にかけながら、色々話しかけてきたっけ。少し戸惑ったのを覚えてる。 「ふふふ、なんか、変な感じ。あの稜クンに再会するとは」 「……」 「でも、やっぱ真面目だね。まさか、酔ってるからってお茶を飲みなさいと勧められるとは」  彼女は笑って、まだ湯気が漂う紅茶のカップを手元で揺らした。  足元、フラついてたから、少し酔いを醒ましてからのほうがいいだろうって思ったんだ。 「ふふ」 「……」 「稜クンはすごい無口でさぁ、いっつも、私ばっか話してて」  目を細めて、カップをもっと傾ける。揺れる紅茶が零れて落ちてしまいそうだ。 「クールな感じがカッコよくて、ふふふ」  また髪を耳にかけて、微笑んだ。  肩の辺りまでにカットした髪がその耳元でくるりと跳ねて、ちょっとだけ邪魔なのか、その毛先を指で摘んで整える。爪が真っ赤だった。  今度、久瀬さんと行こうって計画してる旅行のパンフレットにある紅葉みたいに真っ赤。  少し大人っぽくなった元彼女。名前は――。 「ほら、大学一年でさぁ、なんか男子がすっごい子どもっぽくて。だから、稜クンみたいに物静かってさ、すっごい良い感じで」 「……」 「人気あったの、知ってた?」  カナ、だ。 「あんま、そういうの興味なさそうだったもんね」 「……」 「けど、稜クンはそういうのだけじゃなくて、私にも興味なかった……」  そう呟いて、彼女はまた髪を耳にかけながら、小さく笑う。 「……なんか、雰囲気変わったね」 「……え? そう?」 「うん。変わった」  付き合ってくださいとメッセージをもらって、「いいよ」って返したんだ。うわぁ、嬉しい! って動物がクラッカーを鳴らすスタンプが送られてきて、「こちらこそ」とスタンプ付きで返すのが少し気恥ずかしかったのを覚えてる。 「そう……かも」 「え?」 「俺、変わったかも、ね」  だって、さっき久瀬さんに送ったメッセージ。「もう少ししたら帰ります」って、黒猫がさ、手土産を尻尾にくくりつけて走ってるスタンプ付けたから。黒猫のスタンプならたくさんダウンロードしてあるんだ。  だから、たしかに変わったなぁって、照れくさくて笑いながら頷いた。 「…………嘘、みたい」 「? 何?」 「稜クンってそんなふうに笑うんだ。そっかぁ」  笑うことは、少なかった。 「そうなんだぁ……」  きっと、久瀬さんの黒猫になる前はあまり、笑ったりしなかった。 「えー? 稜クン、夜のお仕事してたの?」  お茶を飲んでから、少し酔いが覚めたのかカナちゃんの口調はさっきに比べるとずいぶんしっかりしてた。ふらふらと突然出現する酔っ払いを華麗にかわして、ハイヒールがリズミカルに繁華街の夜道を進んでいく。 「マジで?」 「あー、うん」 「そーなんだぁ」  カナちゃんがびっくりしてた。そりゃ、そうか、大学だって途中で辞めたし、話に聞くだけだったら、かなりなんだか道を外してしまった人のように思うかもしれない。オリンピック候補を肩の故障で退くことになって、道を逸れて、そのまま夜の世界に……みたいな感じ、かな。 「ぁ、でも、違うんだ。その、えっと」  そうじゃないって言いたかった。道を外したわけでも、逸れたわけでもない。自分らしさをようやく見つけられたんだって。誤りでも迷いでもなくて、むしろ、昔の自分のほうが迷ってたくらいで。 「うん。わかってるよ」  けれど、よかった。彼女には伝わってたみたいだ。 「だってさぁ。なんか別人みたいだもの」  別人、じゃなくて、別猫、なんだ、なんちゃって。でも、本当に変われたんだ。 「無口なとこは変わらないけど」  そう? 久瀬さんには、よくしゃべるなって、言われる。あ、でも、執筆の時は静かにしてる。足の裏に肉球つかないかなって願うくらいに静かに、邪魔にならないように。 「表情が優しくてさ」 「……」 「それに、今は、流されたりしなそう」 「……」  カナちゃんが俺の服の裾をちょんって引っ張った。 「今でも好きなの……だから、お願い」  そして、目を潤ませて、切なげに、そう――。 「って、言っても、ごめんねって断るでしょ?」 「……」 「けど、前ならきっと、流されてたよ」  そんなことは、ないって言い切れない、かもしれない。本当に申し訳ないけれど。そういうところあのうちの人たちに似てたって、今なら思うんだ。 「あのっ」 「稜クン?」 「断る、よ」  今の俺には見えるんだ。色も光もあったかいのも、冷たいのも。ちゃんとわかるんだ。 「あ、えっと、今、付き合ってる人がいて、その、その人のことを大事にしたいから。今は」 「今は、あんまモテないでしょ?」  君のことをちゃんと見ていなかった。指や髪、仕草は覚えているけれど、その表情までは見えないくらい、ずっと俯いていたんだって、今ならわかる。 「だってさ……」  今なら、君の顔もちゃんとよく見える。

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