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無口な猫編 3 鳴かない猫

 声が出なくなった。 「しっかし、なんだろうなぁ、急に」  突然、朝起きたら、声が全く出なくなった。  ――風邪ではないようですね。扁桃腺にも異常は見られないですし、熱もない。もちろん、インフルエンザでもないです。 「まぁ、ゆっくりしろってことだろ。医者もそう言ってたしな」  ゆっくり休んで、疲れを取って、リラックスを心がけてくださいって。  でも、全く出ないんだ。風邪で声が出ないっていうのはあるけど、そういう時はほんの少しくらいなら声が出せる。擦れてて、小さい声だけれど。これはそうじゃない。 「……っ」  声を出そうと思っても、どこかに吸収されちゃったみたいに、全く出ないんだ。吐息すら無音だなんて。 「俺は、いいけどな」 「……」  なんで、声出ないんだろう。 「お前、目を離すとすぅぅぐに無理するだろ? いっつもあっち行ってこっち行ってって、ちっともじっとしてねぇから」  でも、声が全く出ないのなら、本当に音一つでも久瀬さんの邪魔にならないでいられる。  そしたら、コラムの仕事、なくなったりしないかもしれない。小説と違うからって呟いてたけど、俺が邪魔をしなかったら――。 「!」  鼻を摘まれた。声も何も出ないけれど、久瀬さんは嬉しそうに笑ってる。 「おかげで今日のクライミングコーチは休みになった」  笑って、病院からの帰り道を急ぎ足でうちへと向かう。長い長い足、一歩も大きくて、その颯爽とした歩き姿は見惚れるほど。長い髪が三月の風に揺れて、とても綺麗で。 「……」  カッコいい。  そう胸の中でだけ呟くと、久瀬さんが振り返って俺を手招く。俺は返事ができない代わりに急ぎ足で主のもとへと駆け寄った。 「案外、病院早く終わってよかったなぁ」  混んでなかったね。平日だからかな。診察までそう待たずに呼ばれた。 「病院、銀行、あとは……郵便局」 「?」 「小説家でラッキーって思う三大箇所だ」 「……」 「って、仕事がなけれりゃ、平日だろうが土日だろうが、毎日休日状態になるけどな」  以前はそういう時期もあったと思う。決して売れっ子ではなかった作家だったから。今は忙しくて、少し疲れが心配になるけれど。でも、仕事、なくなったら。 「ほら、柚子とカリンのホット蜂蜜」  コラムの仕事が……。 「お前はそれ飲んで、少しゆっくりしてろ」  病院の帰り、とりあえず喉を労わって温めたほうが良いとお医者さんに言われて、久瀬さんが用意してくれた。お湯で薄めて飲むタイプのシロップ。  鼻先を甘い柑橘系の香りが掠める良い匂い。  それを受け取って、いつものソファの上に座った。床に足を下ろさず、ここだけを陣地にして居眠りをする猫みたいに静かに、そっと、いつも音を立てないように気をつけるんだけれど、今日は気にしなくても元々声が出ないから。 「さてと……俺はちょっと、調べたいことがあるから」  うん。昨日も調べ物をしてた。  俺は小さな猫みたいになりたくて膝を抱えなおして、甘い湯気に誘われるように、久瀬さんが作ってくれた柚子茶を口にした。 「美味い? それ」  美味しいよ。甘酸っぱくて。シロップだから? 少しとろみがあるから、喉だけじゃなくて全身あったかくなれて、すごく――。 「あっま……」  久瀬さんがキスをして、俺の唇を舐めると、そう呟いて、自分の唇もぺろりと舌先で拭った。 「あったかいうちに飲んじまえ」  大きな手に頭を撫でられて、とろりと胸のうちも蕩ける。  仕事の邪魔はしちゃダメなんだからと、足先をきゅっと丸めた。よかった。何も話せなくて。ねだっちゃいそうになる。  声、出なくて、助かったって、音ひとつしない安堵の溜め息を零して、脚をしっかり抱えなおした。  久瀬さんの後ろにソファがある。執筆の途中、息抜きにって背中を伸ばした後、ソファを背もたれの代わりにして寄りかかるから、脚を下ろしてると背中に足がぶつかってしまう。だからいつも、久瀬さんが仕事をしている間は必ず俺はソファの上に膝を抱えて座ってる。  そして、この人の大きな背中を独り占めして眺めるんだ。 「……」  執筆中はきっと何にも邪魔されたくないんだと思う。いつもは何もせずに下ろしてる髪を執筆の時だけ束ねてるから。  だから、この時だけ、久瀬さんの長い首がよく見える。  久瀬さんは首の後ろにほくろがあるんだ。きっと誰も知らない。とても小さくて、髪で普段は隠れてしまってるから、俺も最近気がついたんだ。ここに陣取って、じっくり眺めてるネコしか知らない。久瀬さんだって見たことのないほくろ。  ものすごい速さのタイピングの音。  もうきっと冷えてしまっただろうコーヒーを飲む音。  溜め息。  タイピングが止まって、何かを考えて、小さく唸る声。  どんな音も久瀬さんから生まれた音は大好きなんて、言ったら引くかな。  でもそのくらい好きな人。  大好きだから、すぐに独り占めしたくなる。自分がこんな浅ましいことを考えるなんて思いもしなかった。知らなかった。  仕事がたくさん来て、久瀬さんがたくさん書けたら嬉しいのに。  浅ましい俺はこの人が人気者になってしまうのはイヤって思ってる。だから、あのコラムの仕事だって。 「…………静かだな」 「!」  びっくりした。久瀬さんがいきなりソファに寄りかかって、顔を上げたから。 「……クロ」 「……」  背中からソファに寄りかかって、頭を預けて、そして、手をこっちへ伸ばす。長い指、骨ばってて色っぽい俺の好きな指を。 「……ゲームをしようか」  ゲーム? 「クロ」  ゲームって、どんな。そう尋ねたいけれど声が出なくて、困った。ゲームってしゃべれなくてもできるやつ? 息抜き? ねぇ、久瀬さん。 「…………」 「…………」  尋ねたくて、服を引っ張った。久瀬さんの肩に触れて、ちょっとだけ、引っ張ったら。 「……」  久瀬さんは何も言わず、黙ったまま、俺の髪を撫でて、瞼に触れると、調べ物をしていたパソコンを閉じて、コーヒーを煎れにキッチンへと向かった。

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