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無口な猫編 4 ブービー賞

 声が出なくなった日。  その日、久瀬さんが話さなくなった。  ゲーム、なんだって笑ってた。  俺は話せなくて、久瀬さんは話さない。  そして、うちの中がとても静かになった。カタカタとタイピングの音。コーヒーメーカーの音。外の音とか普段はあまり気にならないのに、今日はよく聞こえる。  けど、執筆、捗るのかな。  それならいいんだ。別に。  そう思いながら、背中を眺めてたら、急に久瀬さんがこっちを向いた。背伸びをして、肩が凝ったみたいで首をぐるりと大きく回した。  そして、ソファの上に座っている俺の頭を撫でくれて、俺に一枚のメモを手渡した。 『夕飯の買い物行くか?』  筆談までするなんて。本当に話さないの?  本当にするの? 話さないっていうゲーム。どっちが我慢しきれず話しかけるかの根競べ。けど、俺は話したくても声が出ないから、根競べにならないよ。  ねぇ、久瀬さん。  久瀬さんは振り返ると、カーディガンだけで出かけようとする俺にマフラーを巻いてくれた。  いらないよ。まだ夕方で外、そう寒くないでしょ? だから平気。  でも、話せないからあっという間に首のところはぐるぐる巻きにされてしまった。  これ、やりすぎじゃない? 真冬みたいになってる。  けれど、久瀬さんは満足そうに笑って、自分はカーディガンだけを羽織った。それと財布に、また筆談が必要になるかもしれないからって、メモとペンを。そして。 『メモにペン、小説家っぽいだろ?』  そう書いたメモを俺にくれた。  メモにペンだと、小説家というよりも取材記者っぽい気がするけど。そして、本当に取材記者のようにその場でメモに何かを綴った。 『俺が作るよ。さて、何を作るか当ててくれ』  なんだか。 「…………」  なんだか楽しそう。  今度は大きな手を広げて、人差し指を上へ向かって立てて、天井を指差した。 「?」  上? それとも、一?  数字の一って意味らしい。食材一つ目でわかったらってメモに書いてくれた。  わかったら? そう首を傾げた俺の唇をその人差し指でツンと押した。今度はピースサイン。だから、たぶん、二つ目。食材二つ目でわかったら……頬。  指三本、食材三つ目でわかったら、瞼、四つ目でわかったら、鼻。きっと、キスの場所だ。じゃあ、五つ目でわかったら、額、だって。  ちょっと、楽しそう。  ――ほら、早く行くぞ。  次は筆談じゃなくて、顔でそう告げて、時計を指差す。そうだ。そろそろ卵のタイムセールが始まる時間だ。久瀬さんと行けば二パック買えるって、俺も慌てて靴を履いた。  一つ目は玉ねぎ。ここで分かったら、すごいと思うんだけど……でも、唇のキス欲しさにとりあえず肉じゃがってメモに書いて答えた。  答えは不正解。  次の食材は人参。  やっぱり肉じゃがだと思うんだけど、違うのなら、玉ねぎ人参と来たから、野菜炒め。  でも久瀬さんは首を横に振る。  残念不正解。これで、頬もなし。  三つ目はピーマン。野菜がたくさん。ピーマンも入るんだ。そしたら肉じゃがは確実に違ってる。野菜炒めでもない。うーん。  なんだろうって考えているとタイムアウトしてしまったらしくて、久瀬さんが楽しそうに椎茸を手に取った。もう全然わからない。椎茸が来るとは思ってもみなかった。  これで四つ目でもわからなくなった。最後は……豚肉のブロック。もうちんぷんかんぷんだ。ここで正解したらまだラスト、額が残ってるぞ? って、久瀬さんがにやりと口の端を吊り上げる。  でもわからないんだ。全然。  六つ目でわかったら?  久瀬さんは得意気な顔をして、パイナップルの缶詰をカゴに入れた。 「!」  わかった! って、服の袖を引っ張った。ねぇ、パイナップルなら、きっとこれだってメモに急いで書こうとしたら、腕を取られて。 「……」  掌に書けと差し出された、大きな手の回答用紙に、「すぶた」と書いた。その答えに久瀬さんが大きくうなずく。酢豚で大正解。六つ目でようやく正解だった。  目が合うと、ふわりと微笑んで、そしてそこでちょうどよく卵のタイムセールを知らせるアナウンスが流れて、俺も久瀬さんもそこへと向かって歩き出す。一パック七十円。それ目掛けてお客さんがたくさん歩調を速めて、われ先にと向かった。  激安卵を買えたことに意気揚々としながらの帰り道。  無言なのだけれど、でも、気にならなかった。  桜がもうそろそろ咲くのかもしれない。  公園沿いの道を通ると桜の蕾が膨らんでいた。その蕾を見上げれば、久瀬さんも同じように上を見上げて、そして、人差し指と親指で、蕾の大きさを教えてくれるように摘んだ真似をしてくれた。  うちに帰り着いたら、そのまま荷物を置いて、とりあえずベランダへ。西向きのうちだからギリギリまで外に干しておくのだけれど、これ以上干してると冷えて湿気てしまうからもう取り込まないと。  二人でベランダへ出て、両手に洗濯物を抱えて部屋へ戻った。  ね、よかった。乾いてるって、ニコッと笑ったんだ。笑って、そして、キッチンへ買ってきた食材を冷蔵庫に入れに行こうと。 「……」  立ち上がろうとしたところで腕をつかまれて引き寄せられて、耳にキスしてくれた。直に、聴覚ダイレクトに伝わるキスの音。 『六つ目で夕飯当てたから、耳、な』  そう筆談で教えてくれた。 「っ」  六つ目だからないかと思った。最初教えてくれたのは五つ目までだったから。だから期待してなかった。 「……っ」  それなのにブービー賞は期待以上の賞品で、キスをもらえなかった頬が熱くなって、瞼の奥はクラクラして鼻先には久瀬さんのコーヒーの香りがした。そして唇はキスされたみたいにじんわりと熱を孕んでいて、ドキドキした。

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