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猫先輩編 3 猫会議

 不慣れな場所に警戒していた翌日、朝、起きるとアレキサンダーはソファの下ではなくソファの上へと移動していた。  本物の猫と一緒に暮らしたことのある久瀬さんは「少し慣れたみたいだな」って教えてくれた。  俺は猫も犬も、ペットと暮らしたことがないから、そういうのがあまりわからないんだ。動物園とかも家族で行った記憶がなくて、人間以外の動物は基本テレビの液晶画面の中にしかいなかった。 「ただいま」 「おう、クロ、おかえり」 「アレキサンダーは?」  そう尋ねたら「こっちだよ」と言うようにアレキサンダーがスルリと久瀬さんの足元から顔を覗かせた。 「ほら、ここにいるぞ」 「にゃ」  なんか、俺が仕事でいなかった間に、久瀬さんとアレキサンダーの仲が良くなってる気がする。  まるで久瀬さんの足元に巻きついていないといけないみたいに、アレキサンダーは一時も離れることなく、その足元で行ったり来たりを繰り返してる。 「あ、アレキサンダー、ただいま」 「に゛ゃ」  そして、なんか、俺との仲はちっとも良くなっていない気がする。そもそも鳴き声の感じからして違うし。  あの、対応が違いすぎない?  というか、一日仕事で出ている間にもしかして俺のこと忘れてる? そのくらい、昨日と同じ怖い顔に怖い声。  試しに、と手を伸ばすと、本当に無言のままじっとその手を見つめられた。何それ、みたいな冷ややかな視線だけを向けられて。  それに反して、料理中なのに、すりすりと擦り寄るアレキサンダーに邪魔だぞってたしなめる久瀬さんの大きな手には自分から頭を擦り寄せてみたりして。 「ほら、手を洗って来い。今日の晩飯はチャプチェにした。できたて食ったほうが美味いぞ」 「あ、うん」 「こら、アレキサンダー、足元にずっといると蹴っ飛ばしちまうぞ」 「にゃぁ」  立ち上がり、洗面所に向かう俺の足元にはちっとも来なくて、久瀬さんの足元にばかり、すりすりって。 「なんか、すごいね」 「一日で慣れたんだろ。今日はずっとこの調子だ」 「一日?」 「あぁ」  執筆あるのに。コラムだって書かないと、連載だから大変だし。今、一本執筆もしていて。 「でも、もちろん仕事はしたけどな」 「にゃあぁ」 「してたしてた」とでも言うように、アレキサンダーが可愛い声で鳴いていた。  昨日の食事の時はソファの下にずっといた。今日はソファの上に寝床が移ったけれど、眠ることなくたまに久瀬さんに擦り寄っては鳴いて、またソファの上へと戻って、座るを繰り返してた。  昼間も起きていて、ソファの上に陣取っていたから、たくさん写真が撮れたんだって。あとは寝てるとこも撮れたらいいかもなって。  アレキサンダーの主は明後日帰ってくるって言ってたっけ。平日だからバーはそんなに忙しくないし、急遽でずっと行きたかった遠方への国内旅行を楽しんでるって。 「あのさ、アレキサンダー」 「……」  ソファの上に腹ばいになって座りながらも顔だけは上げている。久瀬さんがシャワーを浴びている間、そのアレキサンダーと二人っきりになったから、ちょっとだけ、言ってみようかなと思ったんだ。  アレキサンダーは久瀬さんの言葉によく返事をしてたから、なんだか、人の言うことがわかるんじゃないかなってそんな気がして。 「久瀬さんは小説家なんだ」 「……」  アレキサンダーは聞こえているはずなのに、こっちを見もしないし。ふーん、あっそう、知ってるよ、みたいな退屈そうな顔。 「だから執筆の邪魔はしないであげて欲しいんだ」 「……」 「あの、だから、ちゃんと大人しく邪魔しないように。スリスリとかはあんまりしちゃダメだから」 「……」  ほら、やっぱり言葉がわかってる気がする。「にゃあ」なんて鳴くこともせずに、視線だけこっちに向けた。  尻尾、長くて黒い尻尾をゆっくり上げて、パタンとソファを叩く。猫が尻尾を振るのって機嫌が良い時だっけ? 悪い時? どっちだっけ?  けれど、またパタン、パタンと尻尾を振った。 「アレキサンダーの主は今、旅行中」 「……」 「だから大人しく」  尻尾を振るのは不機嫌な証拠なのかも。だって、今、チラリとこっちを見て睨んだでしょ。  まるで「うるさいなぁ」とでも言うように。 「留守番を」  ふーんだ……そんな感じにそっぽを向かれた。 「ねぇ、あのさ」 「……」 「主がいなくて、寂しい?」  猫はたくさん寝る生き物だって、テレビだったかもしれない、聞いたことがある。たしかに初日はずっと寝てた。寝てたかどうかわからないけれど、ずっとソファの下にいた。俺たちの入ってこれなさそうな隙間にずっといた。  今朝はソファからは出来てきて、そのソファの上にずっと座っていた。  猫はたくさん寝る生き物なのに、寝ずに、ずっと顔を上げているから。 「うちじゃないから」  寝ていない、んじゃなくて。 「寂しい?」  眠れないのかもしれないと思ったんだ。  俺なら、寂しくて、眠れないだろうからって、そう思った。 「主、いないと寂しいと思う」 「……」 「俺なら」 「……」 「久瀬さんが離れちゃったら寂しいから」  毛布に残るあの人の匂いなんかじゃ足りない。あの人のぬくもりじゃなくちゃ眠れない。あの人の大きな手じゃないと物足りない。だから何度も何度も頭を擦り付けてしまう。 「明後日、えっと、明日の次の日、に迎えに来るよ」 「……」  猫に明日も明後日もわからないってわかってるけれど。 「うーん、あと少ししたら、主が来るから」 「……」 「それまでなら、少しだけ、このくらい」  親指と人差し指をくっつけて、そこからほんの少し、隙間を作ってみせた。 「このくらいなら、久瀬さんを貸してあげる」 「……」  そう話したら、アレキサンダーがパタンと柔らかく尻尾を一度だけ振った。 「なぁに話してんだ」 「久瀬さん」 「同じ黒猫同士、会議中か?」 「あ、ぇ……」 「ほら、お前は明日も仕事だろうが」 「あ、うん」 「おしゃべりはそのくらいにして寝るぞ」  パチンと部屋の明かりが消える。うちは真っ暗にして寝るんだけど。 「おやすみ、クロ」 「おやすみなさい、久瀬さん」  猫は夜目が利くから。真っ暗になり、おやすみの挨拶をすると、さてと……って、アレキサンダーが毛布の上へと移動したのを気配で感じた。今日は、ソファの下ではなく、ソファの上で警戒するのでもなく、毛布の上で寝るらしい。 「あの、おやすみ、アレキサンダー」 「に゛ゃ……ぁ」  可愛い声ではなかったけれど、でも、俺の挨拶に小さく返事をしてくれた。  夜中、何時頃だったんだろう。足元で何か動いたような気配がしたんだ。アレキサンダーかな、でも、さすがにベッドの上なんて来ないか、って思った。思ったけれど、今日は少し肌寒かったし、それに、やっぱり寂しいのかもしれないって、寝る直前にアレキサンダーと話してたことを思い出して、俺は久瀬さんを起こさないようにそっと身じろぐと、どうぞとアレキサンダーにもスペースを譲って、また眠ることにした。。

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