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猫先輩編 4 猫レッスン

 一度だけ、兄に相談したことがある。きっとダメだろうと思いつつ、なぜかふと、いけそうな気がして。けれど、仕事で忙しい親を捕まえて、いきなり頼んでも当然ダメだろうから、まずは兄たちに相談をして……そう思って、ある日、意を決して頼んだ。  もちろん結果は「却下」だった。  だから余計に、その数日後にある遠足が楽しみだった。動物園だったから。動物に触れてみたかったんだ。どのくらい温かいんだろうって、山羊だったかな。でも、期待外れだったのを覚えてる。あまり毛が柔らかくなくて、おっかなびっくりだった俺の触り方も下手だったんだろう。何か、そういうの昔から上手じゃなかったから、山羊もスッと逃げてしまって、鉄格子越しじゃ手が届かなくて、悲しい気持ちになった。  もう、あの時の一回だけだった。  ペットを飼いたいと家の人間に頼んでみたのは。  寂しかったんだと思う。  ずっと――。  猫って、こんなにあったかいんだ。 「……」  足元にアレキサンダーが丸くなって寝てた。  ふわふわしてる。  柔らかくて、あったかくて、こんなに優しい気持ちになれるんだ。  あの日、久瀬さんが拾った猫もこんなに柔らかったのかな。じゃあ、俺は全然、久瀬さんの愛猫になんて――。 「にゃぁ……」  アレキサンダーの耳がぴくんと反応した。  そして、顔を上げて小さく可愛い声を。 「うわぁ、おい、クロ、起きろっ」」 「……久瀬さん?」 「お前、今日は早くなかったか? 仕事」 「え? うわっ」  寝ちゃってた。なんかあったかくて。ベッドから二人して飛び起きると、一緒に寝ていたアレキサンダーもそのままベッドから追い出されるように降りた。足音もなく、ストンと床に降り立って、なんだよ、まだ眠ってたかったのに、って言いたそうなに目を細めてる。 「けっこうギリギリか?」 「ううん。平気」  身支度を整えて、頭なんて別に適当でいいし、化粧があるわけでもない。お洒落もしないし、スーツでもないから、胃袋に食べ物を詰め込んでしまえはあとはどうとでも。 「朝飯、とりあえずな」 「ありがとう。久瀬さん」  用意してもらった朝食を大急ぎでお腹の中へと仕舞い込む。お洒落もスーツもいらないけれど、仕事柄、朝食は抜けないんだ。朝しっかり食べておかないと力が出ない。そして、久瀬さんが用意してくれた朝食を平らげて。 「えっと、それじゃ、俺」  そう言って玄関へ。 「……」  キスしたいな、そう思った。その、アレキサンダーがいるから昨日も一昨日も触れてもらえなくて。キスだけでもしたいなって。 「気をつけていけよ」 「う、ん」 「俺も今日は缶詰状態だ」 「執筆、立て込んでるの?」 「少しな。ありがたいことだ」 「う……ん」  小さく返事をした。仕事、忙しいんだ。じゃあ、邪魔できない。そう思って、靴を履こうとした時だった。 「にゃー」  アレキサンダーが可愛い声で鳴いた。もう執筆し始めようとテーブルの前に座った久瀬さんの腰の辺りに擦り寄って甘えている。  俺は、こら、って嗜めるように手を伸ばした。昨日、話しただろ? この人は小説家なんだ。愛猫は大事な主の仕事の邪魔はしちゃいけないんだって。 「に゛ゃ……」  邪魔しちゃダメだろって窘めようと手を伸ばした俺の方を嗜めるように、アレキサンダーが低い可愛くない声で小さく鳴くと、目を細めてこっちを睨んだ。  まるで、それは……。 「に゛」  教えてくれてるみたいに。そんなわけないって思うけれど、猫が人間とそんな風にコミュニケーションを取れるなんて信じられないけれど。そんなこと、猫が人間に何か説教をするみたいなことなんて、ファンタジー小説みたいだけれど。でも、やっぱり「ほら、こうやって甘えるんだよ。猫っていうのは」みたいに、こっちを怖い顔で睨みながら、頭を久瀬さんに擦り付けてる。 「に゛ー……」  まるで、お前もやってみろよ。 「に゛」  いいか? 猫っていうのはいつ何時でも甘えるのが許される唯一の愛玩動物なんだよ。 「に゛ゃ」  撫でて欲しい時は撫でてもらう、それが許される存在なんだぜ? 「に゛に゛」  犬じゃそうはいかないんだ。犬は主に忠誠を誓うからな。 「に゛ゃあ゛ぁぁ」  猫が誓うのは忠誠じゃない。癒し、だよ。お互いにな。 「に゛っ」  わかったか?  馬鹿みたいだけれど、確かにそう教えてくれてるように、何度も久瀬さんの背後を行ったり来たりを繰り返しながら、その頭を擦り付けてる。 「どうした? アレキサンダー、甘ったれか?」 「にゃあ」 「お前の主は明日迎えに来るから、もうちっと辛抱な」 「にゃ」  久瀬さんはそう優しい声で語りかけ、目を細め優しく微笑むと、アレキサンダーの頭を大きな手でクシャクシャにするように撫でてあげてる。アレキサンダーもその大きな手に負けじと背伸びをしてでも頭を擦り寄せて。 「あ、の……久瀬さん」  アレキサンダーがたくさん甘えてた。 「えっと、その、行ってきます、の……」  普段ならこんなこと絶対にしない。久瀬さんの愛猫である俺は主の仕事の邪魔なんて決してしないんだ。ソファの上でいい子にしてる。家事をしたりしつつ、できるだけ音を立てず、主の仕事が終わるまで、俺を構ってくれるまで、じっといい子で。  だって俺は久瀬さんの愛猫だから。 「どうした? クロ」  邪魔なんて、しない。 「クロ」  けれど、手は久瀬さんのカーディガンの裾を掴んでた。遠慮はしたけれど、でも指でキュッと掴んで、あろうことか引っ張って。 「行ってきま、……」  一昨日、昨日、二つの夜分の久瀬さんの温もりが恋しくて、今、ちょっとだけでも欲しくて。 「クロ」  キスが欲しかった。抱きしめてもらいたくて、あったかさが欲しくて、久瀬さんの大きな背中に腕を回したくて。 「っ……ン」  答えるようにもらえたキスに慌ててしゃぶりついた。舌を差し出して、腕でしがみついて、主に可愛がられようと一生懸命にキスに食らいついた。 「ん……久瀬さん」 「ん?」 「あの、ありがと。行ってきます」  執筆の邪魔をしてしまった愛猫クロは慌てて立ち上がると靴を突っ掛け仕事へと急ぐ。いくらか補充できた主の温もりに嬉しくなりながら、いつもはしない悪いこと、仕事の邪魔をしてでも甘えた自身に顔を熱くしながら。 「おぅ、仕事頑張れよ」 「う、ん」  玄関を出るとき振り返るといつの間にかアレキサンダーが俺の居場所であるソファの上に陣取って、退屈そうに大きな大きなあくびをしていた。

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