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猫先輩編 6 陣地遊び

 毛布とか荷物もあるから、大きな通りまでアレキサンダーと主を見送った。  うちへと戻ると、なんか、すごく、静かに感じてしまう。別にアレキサンダーは騒がしい猫じゃなかったし、一日の大半はソファで寝て過ごしていたのに。 「せっかく……」  せっかく仲良くできたと思ったのに。そう思わず言いかけてしまう。 「帰っちまったなぁ」 「……久瀬さん」  ついさっきまでそこで寝ていたのにって、いつもは自分が座っているソファをじっと見つめていたら、背後から久瀬さんがそう呟いて、笑ってた。クスリと笑って、長い黒髪をかき上げる。 「コーヒー飲むか?」 「え、あ! ごめっ、俺が煎れるよ。久瀬さんは執筆の仕事立て込んでる」  少し忙しそうだった。でもアレキサンダーはそんな忙しそうにしている久瀬さんの周りを行ったり来たりしてて、久瀬さんの愛猫である俺は邪魔しちゃダメだって思ったんだ。  でも、久瀬さんの愛猫って名乗るのも……。俺にはあんなにふわふわした毛もなければ、あの優しい気持ちになれる優しさもなくて。 「なんかアレキサンダーを見てると、お前がうちにやって来た頃を思い出したよ」 「……え? 俺?」 「あぁ、そっくりだ」  来てすぐの頃は、あまり居心地は良くなさそうな仏頂面、けれど、名前を呼ぶと素直に顔を上げる。その表情は嫌そうではなく、むしろ嬉しそうにも見えた。 「そっくり?」 「あぁ、そのソファにずっといるところとかな。あ、ほら、昔、こういう遊びしなかったか?」 「?」  世界を仮想するんだ。例えば、ソファやベッドは陸。テーブルも陸だけれど、乗っかると行儀が悪いから、そこは……そうだな、踏み込んではいけない山ってことにして、それで、あとの床は海。一面、深海何千メートルもある深い海。だから乗っていて、座っていていいのはソファかベッド。  そして少しでも床に足がついてしまったらアウト。溺れてしまうから気をつけて。そう仮想する。 「あれ? お前の年代はそういうのしなかったか? 古いか」 「う、ううんっ」 「そうか? でも、まぁ、そういう遊びでもしてるみたいに、お前もアレキサンダーもソファの上によくいただろ?」  別にソファとベッドを陸っていう設定にしていたわけじゃないけれど、でも、居場所として考えたら、ソファの上にいることが多かった。  だって貴方の邪魔を愛猫として、しちゃダメだと――。 「俺はこっちの海に降りてこないもんかねって、たまに思ったりしてた」 「……ぇ?」 「じゃあ、お前が陸に上がれって話だよな」  久瀬さんは少し照れ臭そうに大げさに笑った。 「けど、あんまり追っかけると逃げちまいそうだろ? 猫って」 「……」  アレキサンダーもよくソファで寝ていた。それを邪魔してしまうと、手を出してしまうと、イヤな顔をしてソファの下へと潜って、そのまま一日中出て来てくれないかもしれないから。 「猫の方から近寄って来ない時はそのままにしておいちまう」  逃げて、ソファの下へと潜り込んでしまわないように。そっと見守っていた。 「それに猫は水、苦手だしな」  小さな頃の仮想遊び。久瀬さんのいるところは深い海のところだから、入ったらいけないと決めている。 「けど、水浴びも結構気持ちいいだろ?」  アレキサンダーがいなくなった途端、とても静かに感じられる部屋、クスクスと笑って、うなじを撫でててくれる大きな久瀬さんの手に自然と頭を傾けてしまう。目を閉じてうっとりとその大きな手の温もりを満喫しようとしていたら、キスをくれた。 「ん……」  甘いキス。  舌を可愛がられて、濡れた音が部屋に響いて、身体が火照るキス。 「ンンっ……久瀬、サンっ」  そのキスに夢中になってしゃぶりついてた。腕を久瀬さんの首に絡めて、もっともっとって、甘えたがりな ――。 「あっ…………ご、めっ」  甘えたがりな猫、じゃなくて、小説家久瀬さんの愛猫として、慌てて離れた。 「クロ?」 「あの、執筆あるの、忘れ、わ、忘れてないっごめんっ」  大事な仕事なんだ。この人がずっとずっと続けて握り締めていた大事な仕事。その仕事の邪魔を愛猫のくせにしようとしてしまって、俺は慌てて、キスを独り占めしようと絡ませていた腕を解いて、ソファの上に陣取った。家事も何もすることがない時はじっとここに座って、久瀬さんの仕事を眺めてるんだ。だからそこに座って、いい子にしてないと。  じゃないと愛猫失格だ。 「うーん……」 「ど、したの? 久瀬さん?」 「いや」  普段は俺がソファの上にじっといい子に座って。久瀬さんは床にあぐらをかきながら座るとテーブルにノートパソコンを置いて仕事を始める。静かな空間。キーボードを叩く小さな音と、あと、耳を傾けて初めて聞こえるほど些細な時計の針の音。 「たまには陸に上がるのもいいよな」 「……ぇ? ……んっ、フッ」  俺の居場所であるソファが久瀬さんの重みに、ギシリとわずかに音を立てた。 「ん、けど、久瀬さん、執筆……っ」 「生真面目なお前も可愛いけどな」  唇を奪うようにキスをされて、またソファが小さく音を立てる。 「素直に甘える愛猫も、相当」 「ん、……んんっ、ぁ、ん、ン」  猫は唯一甘えて可愛がられることを許される生き物。わがままをして、甘えてばかりでいることの許される。  ――にゃあ……。 「可愛かったぞ」  愛猫に甘えられたら嬉しいもんなんだぞって、耳元でこっそりと久瀬さんのあの低い声で囁かれて、ずっとずっと陸にいた愛猫は、突然、深海からやって来た人魚のように綺麗なその人の口づけで。 「もっと甘えてかまわないって思うくらいに」 「でも、俺、邪魔」 「知ってるか? 愛猫ってな、愛しい猫って書くんだ」  深海で暮らすその人のキスに、とろりと身体の奥まで濡れた気がした。

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