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久瀬(攻め)視点 編 3 主という生き物は

「ただいま」 「あ、久瀬さんおかえりなさい」 「あぁ」 「打ち合わせどうだった?」 「あぁ」  帰宅するとすでにクロも帰って来ていた。俺の帰宅に座っていたソファを降りて、そっとこちらへやってくる。少し笑うのが苦手なクロは口元だけで微笑んで、俺のそばへと、そっと静かに。 「あぁ、原稿は上がったよ。これでしばらくコラムだけだ」 「ホント?」 「あぁ、それと、編集担当とお前の話で盛り上がった」 「俺?」 「あぁ、お前のファンなんだそうだ」 「そうなの?」  モテるだろうな。クロは。 「お利口さんって言われてたぞ」 「そう? 久瀬さんもそう思う?」 「あぁ」  この顔、この経歴、それにこの体だ。  どうしてこんな星の数ほどもいる小説家の端にしがみついていたような奴がいいんだか。 「嬉しい」  オリンピック代表候補になれるような男で、家柄もいい。何一つとっても優秀な男が、そのどれも持ち合わせていないようなしがない小説家のどこがいいのか。 「ね、久瀬さん、あのさ……小説の仕事、ひと段落ついたんなら」 「?」 「あの……」  おい……。  おいおい、おい。 「あ! 久瀬さん! 本当に来てくれた!」  なんて格好してんだ、お前。 「俺の出番もうすぐだから」  それ、それで登るのか? その格好で。  いや、なんというか……乳首、勃ってないか? 「久しぶりなんだタイム測ってクライミングするの」  身体のライン丸見えだろうが。 「上手く登れるといいんだけど」  タイツだから当たり前なんだろうが、それでも筋肉の動き一つ一つまで見えるんじゃ、それはただの裸だろう。 「あの……久瀬さん? えっと……って、うわぁ! な、何」  クライミングを教えているアスレチッククラブでちょっとした催し物が企画された。生徒やその保護者、家族、何人でも招待して、クライミングに挑戦してみたり、他のアスレチック器具を使ってのレクリエーションに参加してみたり。  その催し物の一つに、クライミングコーチ陣によるタイムレースがあった。  それを見に来て欲しいと言われて、来て見たわけだが。  なんちゅう格好してんだ。  クロが待つ控え室に通されると、ちょうどクロがストレッチをしているところだった。ほぼ体のライン丸見えのタイツ姿で。  思わず、近くにあったクロの鞄からTシャツを引っこ抜いて、着せてた。 「久瀬、さん?」 「……」  タイツたって性的趣向のやつじゃない。アスリートがよく着ている筋肉のサポート用のタイツだ。特にクロは肩を壊してるからこういうのは着た方がいいんだろう……とは、思う。 「…………T、Tシャツ、着てけ」 「あ、うん」  バカだなぁとは思う。  アホだなぁと、本当に思う。  お前くらいだよ、邪な目で見てるのなんて、と、自分に呆れる。年甲斐もなく、そんなことに慌てるなよって笑い者だ。 「それじゃあ、俺、順番だから」 「あぁ。頑張れよ」  コクンと頷くと、クロは名前を呼ばれ、見上げるほど高いクライミングのボードの前へと立った。命綱をつけ、足元をじっと見つめているんだろう、俯いて、その大きな背中がゆっくりと膨らんで、一呼吸をした。  そして、ブザーが鳴った。  と同時にその点々とカラフルな突起を掴んで、クロが壁を登っていく。  最初は垂直、けれど途中から角度がついていく。斜めになる。反対方向に。つまりは反り返っている壁面を登っていくんだ。その強靭な身体に歓声が上がる。人としてものすごく優れていると見てわかる。普通の人間にそんなのできないだろう? 反り返っている壁を登っていくなんて、CGだろ。  その信じられない壁をどんどん登って、途中、手の届かないだろう石へとクロが手を伸ばした。誰もがその手が掴めるのか、掴めないのかを固唾を飲んで見守っていた。  そして、さすが元オリンピック代表候補だと、コーチ陣からも拍手が起きた。最後、てっぺんまで到着して一番高いところへタッチをすると、そのまま手を離した。  他のコーチ陣のを見ていないが、けれどこの見学者の反応でわかる。きっとダントツの速さだったんだろう。 「……」  それを自慢にも思う。  すごいだろうと、我が愛猫へ向けられる賞賛を誇らしいと。けれど――。  ―― 読んでるとクロちゃんは先生のことが大好きなんだろうなぁっていつも思います。  主っていうのはワガママな生き物だ。  ――いいなぁ。  どうだ、うちの猫は可愛いだろう? と周囲に自慢して周りたいくせに。  周囲が自分の愛猫を可愛いと褒めてくれるのは好きなくせに。  見せびらかしたいくせに。  見るのはいいけれど、触るのはダメだと急に苛立ち始めるんだ。  自分の猫が触られて溺愛されるのは嫌なんだから。うちの猫だと急に主張して、その手に抱っこさせまいと奪ってしまう。実にワガママだ。 「どうだった? 久瀬さん!」 「すごかったぞ。コーチ陣だろう? あそこにいるの。拍手してた」 「久瀬さんは?」 「あぁ、すごいなぁと見てた」  ありがとうと、少し頬を染めて、微笑む月色の瞳がとても綺麗なのを、他の誰にも知られたくないと、この腕に急に閉じ込めたくなる。主というのはやはりとてもワガママな生き物だ。

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