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猫に媚薬編 1 猫友
ずっと猫になりたかった。
そしたら久瀬さんのところで邪魔に思われることなく可愛がってもらえるかなって。
ずっと猫に。
でも、最近――。
――今日は打ち合わせが早くに終わった。そろそろ帰る。夕飯は一緒に作ろう。それから。
ボルダリングのコーチの仕事を終えて、職場から自転車でうちへ帰る途中、信号待ちをしながらスマホを見るとそんなメッセージが入っていた。
「やった」
一人なのに、思わずそう呟いて、少し周りをチラリと伺った。
今日の夕飯にって、ワインを買ったんだ。マンションまでの道の途中に雰囲気の良さそうな酒屋を見つけたから。ワインに特別詳しいわけじゃないけど、何か店構えの印象だけで思ったことだけれどワインの美味しいのが揃ってるんじゃないかなって。そう思って入ったら、いくつか安くて美味しいのを進められて、二本も買っちゃったところだった。二本も買ってくれたからって、また来てくださいとスモークチーズをサービスでつけてもらった。
早く帰ってきてくれるのなら、ワインゆっくり飲める。
――それから、今日はクロ宛てに面白いものをいただいた。
なんだろう。俺宛て、というか久瀬さんが書いてるコラムの中に登場するクロへいただいたもの。また首輪かな。赤い鈴のみたいに、猫グッズなんだろうな。
そう考えながら歩いていた時だった。
――チリン。
鈴の音が聞こえた。
「?」
どこからだろうって、辺りを見渡して。
道路の真ん中に猫を見つけた。鈴付きの首輪をつけた黒い猫が、道路を横断しようとして、そこに車が。
「! 危なっ、!」
咄嗟だったんだ。
轢かれてしまう。だから慌てて駆け寄って、その猫を――。
「っ、いてててて」
猫を抱えて道路脇の垣根に突っ込んでた。
「にゃお」
飼い猫、だ。
「はぁ……びっくりした」
真っ赤な、俺が持っているのに似た鈴つきの赤い首輪をした猫が抱っこされても嫌がることなく、愛らしい声で鳴いた。
「危ないだろ。道路に飛び出したら」
「にゃお」
「……返事してるみたい」
「にゃお」
飼い猫、だからかな。人間に慣れていて、まるで会話でもしているみたいに返事のタイミングで鳴く利口な猫だった。
「君が車に轢かれたら、ご主人が泣くだろ?」
月色をした瞳がじっとこっちを見てた。
「気をつけて。道、こっちに歩いてたから……じゃあ、家はこっち?」
答えてくれるわけはないのに、冗談混じりで尋ねると、そうだよ、と答えるようにその黒猫は視線を俺から、道路を横断して向かおうとしていた方へと向ける。
「ほら、俺が渡らせてあげるから」
抱っこしたまま道を渡り、垣根のところに下ろしてあげた。そして、下ろすと可愛い声で「にゃお」と鳴いて、足元に身体を擦り寄せてくれる。猫独特なしなやかで愛らしい仕草だ。
二回、三回、足にくるりと尻尾を巻きつけるように擦り寄せて歩いてくれて。
「にゃお」
まるで何か言いたそうに小さく鳴いた。
挨拶、してくれてるのかな。ありがとうって。
「どういたしまして」
「にゃお」
本当に会話をしているみたい。
賢い子だな。
「にゃお」
「お散歩の途中? おうちで主人が待ってるだろ?」
「にゃお」
ちょっと楽しくて。
「俺も、今日はご主人様が早く帰ってきてくれるんだ」
「にゃお」
なんだか、俺も猫の友達ができたみたいな気分になれるのが楽しくて。
「俺も黒猫なんだよ。君と同じ瞳の色でしょ?」
「にゃお」
「今は人間の姿をしてるんだけど」
しゃがみ込むと、視線が近くなった猫がじっと俺を覗き込んでいる。
「俺も同じ赤い首輪を持ってるんだ」
「にゃお」
「鈴もちゃんと付いてる」
「にゃお」
ちょっと楽しくて。
ちょっと、ずっとなってみたいと思っている猫に俺もなれたような気分で。
「にゃお……」
周りを見て誰もいないことを確認してから、今度はこちらから猫語で話しかけてみた。
「にゃーお」
そうしたら、まるで返事でもするようにその黒猫が長く一つ鳴いて尻尾をピーンと立てた。なんだっけ。猫同士の挨拶の時、だっけ? 尻尾を立てるのって。
そして本当に話しながら指差しでもしているように尻尾の先をピクンピクンと小刻みに揺らして、からくるりと回った。
「帰るの?」
ご主人様のところに。
「じゃあね」
俺も早く帰ろう。今日は打ち合わせが早く終わったって言ってたから。
「バイバイ」
そう挨拶をしてその黒猫は垣根の中に消えて、俺は自転車に跨って帰路を急いだ。
「遅かったな。おかえり」
帰ると、久瀬さんの方が先に帰ってきていた。
「って、お前どうした、その顔」
「? え? 何? 顔」
「擦り傷」
「あ……」
慌てて駆け寄る久瀬さんが触らずに指先で指し示した辺りに自分で触れるとヒリヒリとした。そして指先には少しだけ黒ずんだ血が。
「あ、多分、垣根の」
「垣根?」
「あ……うん。途中、いい感じの酒屋を見つけて、そこでワイン買ってたんだ。そしたら」
「ほら、クロ、おいで、消毒するから」
「え、いいよ、このくらい」
「バイキン入ったらどうすんだ。ったく、なんでワイン買って垣根に突っ込むんだよ」
「ちが……くて」
甘い、匂い?
「沁みるぞ?」
久瀬さんの指先? から?
「あ……う、ん」
「枝で切ったのか?」
どこ? から、この甘い香り。
「多分、枝。その、猫が轢かれそうになって、それを助けて、っ……」
「全く。気をつけろよ。ほら消毒終わりだ」
「あ、りがと」
鼓動が早くなる。
「あぁ、そうだ。今日、編集部に黒猫クロ宛てに色々届いてたんだが、面白いのが入っててさ」
何、これ。
「これ、リフレッシュになるんだそうだ」
心臓が壊れそうなほど。
「あっ……」
甘い香りが一気に強くなった。
「またたび、もらったんだよ」
そう言って久瀬さんが手に持っていたそれをひらりと目の前で一度振っただけで、目眩がするほど甘ったるい匂いに、身体が震えた。
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