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エリオット・J・セードリック

悲しみよ、こんにちは。 誘惑する肉体どうしの愛 その愛の強さときたら 形のない亡霊のように いとしさが溢れ出てくる。 うなだれた頭 悲しみよ、その美しい顔。 (エリュアール「形のない痛み」より私訳)  これは告白の日記である。  だがしかし、誤解はしないでほしい。私はこれを背徳に耐えかねたせいで書いているわけでもないし、秘密に耐えかねたせいで書いているわけでもない。こんなことを言うと、また家族が悲しむだろうが。世の中の多くのイギリス人が無意識にそうであるように私はクリスチャンではあるが、まったく私自身の思想と愛情に罪悪は感じていない。なぜならそれを否定することは、私自身の存在を否定することに他ならないからだ。  ならばなぜこれを書くのか?  そう問われれば、あの人のことを忘れないために決まっている。誰よりも愛している、彼を。  トーマス・ライトンと初めて会ったのは、いったい何歳のときだったのか。彼は、私の家の庭師の息子だったのだから、おそらく頻繁に我が家に出入りしていたに違いないのだが、初めて存在を認識したのは六歳か、七歳くらいのことだろう。  私は栗毛の愛馬のガルリを木につなぐと崩れかけた壁を覗き込んだ。  古い庭。誰からも忘れ去られたような。しかし、手入れは行き届いているようで、清楚な薔薇が花を咲かせていた。  それは、私の家にいくつかある庭のひとつだった。どうやってそこまで行ったのかは記憶にない。私の両親は数年前に亡くなっていて、乳母もさぼりがちの若い少女だったから、あのころ私はよくひとりで果てのない庭で一人遊びをしていたものだ。  そこに栗毛の少年が立っていた。ガルリ、と私は呼んだ。彼はまるで馬が人間になったみたいな、外見をしていた。艶やかな栗毛。優しい黒い瞳。 「どこの子か知らないけど、ここには入っちゃいけないんだよ」  少し恐い目をして彼は言った。 「……ごめんなさい。どうしてか聞いてもいいですか?」  私は言った。 「ここはセードリック様の秘密の庭なんだ」  彼は大きな秘密を教えるような顔をして私を見た。私より少し年上か。彼の態度は、自分がこの庭を管理する者であることの少年らしい誇りに満ちていた。 「シャーロックのことですか?」  私はまだ幼い従弟の名前を出した。シャーロック・J・セードリック。私もセードリックの性は継いでいるが、この家でセードリックと言ったら身分上は男爵である彼のことだった。だが、彼は否定する。 「ううん。三年前亡くなられたアルフレッド旦那様の。そういう約束なんだ」  つまり、私の父だった。私は首を傾げる。 「約束……?」 「俺の親父が、旦那様が亡くなった後もずっとここをそのままにしておくっていう約束。親父うるさいよ、俺が入っていいのも手伝ってるときだけだもん」  彼は子供らしく唇を尖らせた。 「庭師さんなんですね」 「うちはね、代々庭師なの。親父も、じいちゃんも、親父のじいちゃんも」 「僕の家も代々男爵様なんです。僕は違いますが」  彼があまりにも自分が庭師である栄誉を誇りに思っていたようなので、私も自己紹介することにした。今思えば彼はびっくりしていたことだろう。 「……あんた、名前は?」 「エリオット・ジョーセフ・セードリックです」  私は笑った。 「エリー、ってお母さまは僕をそう呼んでいました」  庭師も笑って私に手を差し出した。 「エリー。俺はトミー。トーマス・ライトン。洗礼は受けてないから名前はひとつしかない。よろしくな」  握手をする。少年なのに庭仕事をする彼の手は荒れていて大きかった。その武骨な感覚に少し驚いたのを覚えている。 「きれいな手。レディの手みたいだ」  彼はそう言うと掴んだ私の指先に小さくキスをした。私はなぜか恥ずかしい気がして、腰を折り曲げた彼を見ることができなかった。  恋に落ちたのなら、この時だろう。  今から思ってみれば、初めから私たちの友情は度が過ぎていた。ふたりきりのとき、彼はためらいもなく私を抱きしめたし、私もそれが当たり前だと思っていた。彼はつよく私を抱きしめると、よく何も言わずにそのまま私を長い間抱いていた。  そして私たちはそれがまともなことでないことも、充分に知ってはいたのだ。なぜならば、私たちは人前では手さえ一度も繋がなかったのだから。  だがしかし、それでも直接的な接吻に至るまでには多くの時間を要した。十にはなっていたと思う。私は時折自分自身の中の欲情を感じるようになっていた。 「エリーっ、早く来いよ」  真夏の太陽。その下に下着一枚の彼の体は惜し気もなく曝されていた。私たちは緩やかな流れの川の中にいた。  彼は自然だった。まるでそこにいることを運命づけられてでもいるような、しなやかな肉体。彼自身がまるで、水の一部か、流木のような。  足元に触れる水は心地よい。だが私は既に所々男らしさを見せはじめた彼の体を正視するのが、訳もなく非常に恥ずかしかった。  それから、彼の黒い目に熱っぽくじっと見つめられるのが。その視線に堪らなくなって私は彼の瞳を見返した。 「全然外で遊んでないって肌ですね。たまにはこうやって太陽に当てた方がいいんじゃないですか?」  目が合うと彼はそう言って微笑んだ。なんてことだろう。彼は平然とそんなことを言いながら、腕を広げて私を迎え入れるのだ。  私はその腕の端につかまりながらそろそろと体を水の中へと沈めていった。足元の苔のついた石はぬるぬるとして、私は何度か滑りそうになる。冷たい水が全身に広がっていく中で、彼の温かい体温だけが感じられた。 「エルっ」  それは一瞬の出来事だった。私は今度こそはっきりと足を滑らせ、全身で彼にしがみつき、彼は私を力強く抱き寄せた。  必要以上に私たちは近付きすぎていた。お互いの吐息が感じられるほどだった。間の悪い沈黙。  そして、彼の濡れた唇が私のそれを覆った。冷たい川の匂いのする水。それから温かい唇。それらはまだ官能を刺激するほどではなくて、ただ気持ちが良いだけだった。  しばらくして、躊躇いがちに彼の体が私から離れていった。私は上目遣いで彼を見た。彼のきれいな瞳は、審判を恐れるというよりはむしろ戸惑っていた。 「あ……、あの」  何か言いかけて吃る彼に、私はもう一度体を預けた。 「エリオット様……」  彼の濡れた筋肉が、硬張るのがわかる。早く波打つ彼の心臓の音を私は自分の胸に感じた。 「エリーって、呼んでよ」  私は体を寄せたまま、彼の目を覗き込んだ。馬みたいな優しい暗い色の目。 「あ…、ええとっ、エリー……」  彼はまだ戸惑っていた。 「好きだよ」  そのとき私はまったく小悪魔だった。そう言うと微笑んでみせる。  彼は震える手でそんな私を抱き寄せると、もう一方の手で顔を上向かせた。  今度は明確な目的を持って、私は唇を触れ合わせた。子供のままごとではあったが、私たちは歯並びまでなぞってお互いを確認しようとした。  疲れるまでそうしてから、彼は私の体を抱き寄せた。そうして、そっと私の耳に囁いた。 「俺も、……エリーが好き」  私の全身に喜びが広がる。  トミーも、私のことを好きだと言う。常に知ってはいたが、言葉になるまではいつも不安だった。  私は生まれてはじめて満たされる、という思いを感じた。そしてあんなに満たされていた日々は、今思ってもあの夏を措いて、ない。 「エリオット、あなたいつから菜食主義者になったの?」  夕食の後、伯母が不思議そうな声で聞いた。私は皆と違う食事を運ばせていたからだ。 「今日からです。ですから、これからはバーベキューに参加できません」 「それは残念ですね」  嫌味にも取れる言い方で、ジョージ叔父さまが言った。立ち居振る舞いが貧相な彼を私はあまり好きではなかった。叔父と呼んではいるが、本当は何の血も繋がりもない。亡くなったシャーロックの父親の弟で、いつのまにか我が家に住みついた男だった。  壁に掛かっている肖像画を見るかぎり、顔立ちは伯父さまに似ていなくもないと思うが、とにかく彼の卑しい笑い方が私は気に入らなかった。昔は芸術家を目指していたとも言うが、真偽のほどは定かではない。 「なぜなのか、伺ってもよろしいかしら?」  伯母が問う。  トミーがベジタリアンだから、とは恥ずかしくて私は言えなかった。今朝、なぜ彼が菜食主義者なのかという質疑をして、その答えに非常に感銘を受けたのだが、人の意見で主義を変えるのは子供っぽすぎると思われたからだ。もっとも、その思考そのものが子供のものではあるのだが。 「……いやなものはいやなんです」  意外にも伯母はうっすらと微笑んだ。愛しげな視線を宙に泳がせる。 「そういえば、アルフレッドも菜食主義者だったわ」 「叔父上?」  子供らしい明るい声で、シャーロックが伯母を見る。彼には叔父の記憶がないのだ。 「そうよ、アルフレッド叔父さま」  トーマスには、メアリーという妹がいた。彼女は我が家のメイドであったが、それ以外に彼女は私の人生の中で重要な役割を果たしている。これは彼女自身の意思とは関係なく、結果としてそうなっただけである。  その日、私とトーマスは広い庭の中にある納屋のひとつにいた。納屋とはいってもそれは小さな物置のようなものであって、私が好んで通った馬小屋とは違う種類の納屋だった。天井はガラス張りになっていたのか、辺り一面太陽の光が溢れていたのと、新しい藁の匂いを覚えている。  私たちは朽ちかけた木製の床に横たわっていた。いつものように人目を忍んで接吻を交わし、抱き合ってお互いを感じていた。  体だけは大人並みに成長して、それだけで済まなくなってきていたのは間違いがないが、私たちはそれでもそれで欲情を誤魔化すことが出来ていた。それが、その日だったのは、私たちがメアリーの声を聞いたからだった。  メアリーは兄を探していた。今でも理由は知らないが、彼の父親か馬屋番のジャックが彼を探していたとでもいう理由だったに違いない。  彼は声を出そうとした私の唇にそっと指先で触れて小さく微笑んだ。  それだけで私の心は秘密に乱されてしまう。  今度は指の代わりに乾いた唇が私に触れた。触れるだけの接吻ではあったが、私は私たちだけではない事態に心臓が止まる思いがした。メアリーはお喋りな女の子だ。私たちのことをメイド友達に話しでもしたら、間違いなくこのことはその日のうちに伯母さまの知るところになるだろう。  私の恐怖が見て取れたのだろう。少し不機嫌な目をしてトーマスが私に強く口づけてきた。 「トミー、トーマス!」  メアリーの苛立った声がすぐ傍で聞こえた。トーマスはさらに激しく口づけてくる。私は必死で私たちの作り出すすべての音を殺した。  それが気に入らなかったのかそれに欲情を煽られたのか、理由はもはやわかりはしないが、彼は私の首筋に口づけながら私の衣服を剥ぎ取ろうとした。  思わず声をあげようとした私の口を、彼は大きなその手で塞いだ。それは私に事態を思い起させた。  私は今どんな音も立てるべきではない。こんな姿をメアリーに見られたら……。  彼の唇が私の全身に触れた。私は右手で自分の口を塞いだ。利き腕の左を使わなかったのは、その手首は彼に取られていたからだ。  彼の黒い目で見つめられて、私は羞恥と恐怖と欲情に、何度となく悲鳴をあげそうになった。不思議と屈辱は感じなかった。恥ずかしげもなく言ってしまえば、私は彼にずっと抱かれたかったのだから当然ではあったが。 どんな言葉も交わすことなく、無言のまま私たちは体を重ねた。お互いの声もなく、ただ体か擦れる音と吐息の響く午後の納屋は、身震いがするほど淫靡だった。  彼は震える私を容易く押さえつけて、そして押し開いた。彼の動きは驚くほどなめらかで、私はまるでそうなることが当たり前のように感じた。それはさらなる羞恥をもたらした。  私は全身に五月の光を浴びるとき、いつも彼のことを思い出す。彼と、この日のことを。  朦朧としていてこの時の記憶は正直に言うとあまりないのだが、背の高い木々の間から汚れて曇ったガラスを通して私に辿り着いたちらちらと動く光は、一生忘れないだろう。  彼は小さく唸り声をあげた。  羞恥は極限まで高められて、それは素晴らしい瞬間だった。私は悦びに打ち震え、声を殺すことも忘れてついに悲鳴をあげた。  我に返ったとき、恥ずかしさのあまり私は泣いていた。それを見たトーマスは自分の引き起こしたことの重大さに青ざめたようだ。 「エリー、ごめんなさい、こんなことするつもり……っ」  今思い出すと笑ってしまうのだが、彼はかわいそうなほど狼狽えていた。彼もまだ十四だったから、勿論事態に対する冷静な判断力などは欠片もない。  私は慌てて衣服を身に付けると赦しを乞っている彼の頬を張り飛ばして駆け出した。泣き顔を見られたのがいたたまれず、一刻も早くその場を離れたかった。 「エリー、エル!」  切羽詰まった彼の声を無視して私は一目散に屋敷を目指し、辿り着くと周囲の疑惑の声も無視して自分の部屋に駆け込んだ。無論、庭師の彼が屋敷に入ってくるはずがなかったが、それでも内側から鍵をかける。  私は寝台に身を横たえると目を閉じた。走ったせいか体の震えが止まらない。下半身の疼痛も堪らなかったし、全身が怠かった。私は何度となく枕を殴りつけた。涙がまた溢れだした。  しばらく泣くと少し落ち着いた。落ち着くと、私は私に触れた彼の輪郭が忘れられなくなった。  言葉は一言もなかったが、彼の目はずっと優しかったし、性急ではあったが彼の動きも決して思いやりがないわけでもなかった。欲情に濡れた彼の横顔を思い出しているうちに私は切なくて堪らなくなった。愛しくて堪らなくなった。  彼の触れた自分の半身にそっと触れた。彼と同じ欲情を手の中に感じた。彼を思って、また涙が溢れた。彼を思うことは、苦しくて仕方がなかった。  私はまた泣いた。こんなに泣いたことは、両親の葬式でもない。  ずっとそうしていて、泣き腫らした目がぼんやりと眠くなったころ、ノックの音がした。 「エリオット」  扉の向こうで伯母さまの声。どうしよう、メアリーのお喋りがもう伯母さままで伝わってしまったんだ。私は一気に地獄に突き落とされた気がした。 「はい、伯母さま」  返事をしながら、私の心は恐怖でいっぱいだった。庭師と体を重ねていたなんて。私は勘当を言い渡されるのだろうか。 「お食事の時間よ。具合が悪いの?」  考えてみると、私は空腹だった。しかし鏡の中の私の目は泣き腫らして真っ赤だし、首筋からは彼の歯形が明確に見て取れた。こんな姿で人前に出るわけにはいかない。特に伯母さまの前には! 「……申し訳ないのですが、どうもだるくて、何も口にする気になれません……よろしければ、あまりお話もしたくないのですが…」 「まあ、大変。お医者さまを呼ばなくちゃ」  とんでもない。 「いえっ、大丈夫ですっ。た……体調が悪いといっても…昨日ちょっと夜更かしをしたもので、そのせいでしょう。…しばらく寝かせていただけませんか?」 「そうなの? あんまりひどいようだったら真夜中でも気にせずメイドを呼ぶんですよ」 「はい、わかっています」  伯母が去って行ったようなので、私は溜息を吐いた。安心すると、空腹を感じた。幸運なことに、私の部屋には洗面所ならある。水でも飲んで空腹を凌ぐしかない。  そして、部屋の中にシャワーがあったのも、物理的には幸運なことだった。精神的には彼の断片を洗い流してしまうことに淋しさを感じはしたのだが。  翌朝は昼すぎまで眠っていた。結局、時折襲ってくる切なさと空腹と恐怖に明け方まで苛まれていたのだ。  カツン、と小石か何かが窓に触れる音がする。それが余りにも続くので、私は窓の外を見た。私の部屋は二階である。 「……トミーっ!」  私は小さく叫ぶとカーテンの後ろに隠れた。窓の下には窓を見上げて手を振る彼がいたのである。降りてこいというのだろう。  私に触れた彼の体の記憶があざやかに蘇り、羞恥で全身が熱くなった。  駄目だ。私から彼に会いに行くことなんて出来ない。  たとえ世界の何物よりも彼を愛していてもだ。一族の長ではないにしても貴族たる者、一時の情緒に行動を支配されるべきではない。  亡くなった伯父上の言葉を繰り返す。  私は裾の長い絨毯の上に座り込んで耳を押えた。彼はその後も何度となく私の窓に色々な物を投げ続けていたが、やがて執事の誰何の声がして静かになった。  また、涙が溢れ出てきた。前夜とはまったく違った種類の涙。この時の感情に名前を付けるなら、恐怖だった。 「エリオット!」  私の部屋の扉を叩く、少年の声。  私はベッドから飛び起きた。どのくらいそうしていたのか、時間の感覚はまったくなかった。気紛れな外は雨。 「シャーロック?」 「入れてくれる?」  私は躊躇った。シャーロックなら子供だから何も気づかないだろう。しかしメイドか誰かが傍にいたなら私の乱れた姿は噂になるだろう。トーマスが私の体に刻み込んだ接吻の痕がどれくらい残っているのかもわからない。 「シャーロック、一人かい? ……僕は今酷い格好をしているんだが…」 「そうだよ」 「メイドも、伯母さまもいないね?」 「いない」  それでも彼が信じ切れずに私は扉を少しだけ開けた。制服を着たままの彼は、学校からまっすぐ私の部屋に来たに違いなかった。  私は制服を持っていない。学校に行ったことがほとんどないからだ。父に似てもともとあまり健康的な方ではなかったので、数日通ってやめてしまった。今は年老いた家庭教師が、思い出したようにやってくるだけだ。  それを嘆いたことはなかったが、友人と共に楽しげな声を上げて遊んでいる彼が羨ましくなったことがないとは言えない。  シャーロックは利発そうな表情で微笑んだ。  私と彼は、何もかも違っていた。彼は母親である伯母によく似ていて、どんなことにも飽くなき好奇心と向上心を見せたし、強いブロンドと碧眼も伯母譲りだった。  実際のところ彼にはあまり得意なものはない。誉められるものといったらチェロの演奏くらいのものだったが、彼はいつもプライドに満ち溢れた表情で微笑んていた。そしてそれが、唯一上に立つ者に必要なものだ。  一方私は、その伯母の弟である父によく似ていた。あまり記憶はないので性格はわからないが、少なくとも外見上はそっくりだ。白に近いブロンドに茶色い目。男にしては華奢な作りの肉体に高い声。いつも優秀であったにもかかわらず、常に劣等感に苛まれ、最後は自ら死を選ぶように死んでいった孤独な父。だが彼は、美しいものをこよなく愛し、そして素晴らしい声を持った歌い手で、なおかつ数学者だったと伯母は言う。  私は……少なくとも音楽的でも、数学的でもない。 「トーマスからの伝言」  その名前に、私は顔色を変えたと思う。気づかずにシャーロックは続けた。 「まず、もし字が書けたら手紙を書いたけれど、書けないで伝言という形になったことについて反省しているということ。それから、ずっと『アルフレッド様の秘密の花園』で待っている。それだけ」  私は立ち上がると洋服箪笥に駆け寄ってそこからレインコートを取り出した。ああトーマス! 君は本当にずっと一日中あそこで僕を待つつもりなのか? 「出掛けてくる」  『秘密の花園』? と聞きたそうな表情でシャーロックは私を見た。しかし彼はそんなふうに人のプライヴァシーに触れるような質問をするように躾けられていない。私は少年の好奇心を満足させてやろうと思った。 「ありがとうシャーロック、助かったよ」  少年は満足気に微笑んだ。  ぽつぽつと固まって咲いている水仙とデイジー。気の早い薔薇と百合の蕾。父は、清楚で派手な花が好きらしい。  壁の向こうには、綺麗な夕焼けが広がっている。  彼はよく、自分が半分植物みたいなものだと言った。だから、植物である彼が動物を口にするのは奇妙なことだとも。よっぽど植物と動物を愛していたのだろう。  約束通り、半分植物みたいな格好で、彼はそこにいた。彼は全身水浸しだった。  ここでずっと時間を潰していて、彼の父上やジャックは怒らないんだろうか。 「…仕事は?」  私が呟くと、彼は振り返って微笑んだ。 「許してください。あんたを思うと、手につかなくて」  私の愛する優しい目が、悪戯っぽく閃いて笑っている。ああトーマス、私の最初で最後の愛する人! 激しく抱きしめて、口づけてほしい! 「……雨具ぐらい使えばいいのに」  しかし、恥ずかしくて思いつく言葉はつまらないものばかりだ。自分が嫌になる。 「俺、雨なんて気にしないんですよ」  彼の言葉尻を捕まえて、私は呟いた。 「半分植物みたいなものですから?」 「うん、そう」  そう言うと、彼は私に向かって手を伸ばした。 「昨日のことは、許してください。嫌だったら、もうしません」 「……嫌じゃない、君のことは好きだから……だけど、……」  私は躊躇った。彼は、それを自分の衣服が濡れているせいだと思ったらしい。 「脱ぎますけど……」  私の脳裏にあざやかに昨日の彼の裸体が浮かび上がる。全身の血が駆け巡った。慌てて私は彼の腕に飛び込んだ。 「いや、いい! そのままで! 僕も植物みたいなものだし!」  飛び込んできた私を抱きすくめて、くすりと彼が笑った。低い囁き。 「じゃあ、同類だ」  どうしたらいいんだろう? 私はその小さな囁きだけでパラダイスにいる心地になった。天国に行ってもこんなに満たされることはないだろう。  ああ、このままではいけないのに……。  考えてみると、私の中にキリスト教的倫理観は初めから存在していない。その意味では初めから私はずっと自由であった。私の一族は敬虔なアングリカンの信者であったが、外に目を向けてみたならば、あと数年待てば私たちは合法的に同居することも認められていたし、それは素晴らしいことだった。  だが、また私は自分がそれを望まないことも知っていた。私の恐怖というのは、不浄な存在として一族から排除されるということだったからだ。私の生活はこの屋敷以外には存在しなかったのだから。  しかしどう考えても、当時の私が理論的にそう結論づけていたとは思えない。ただ、漠然とした不安と恐怖を、時としてトーマスにぶつけてみただけだ。それも、彼のつよい腕に抱きしめられればすぐに忘れることができた。  唯一の希望は、出来るだけ秘密が長く存続すること。ああ、誰かに見つかってしまったら!  それでも私は初夏の日差しと彼の愛情を全身に受けて、ただひたすらに幸福だった。  書き記すべきことは、これだけだ。

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