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トーマス・ライトン

 十六の冬に、すべてを失った。  でもまずは、それよりちょっと前の話だ。 「どうしてトミーはベジタリアンなの?」  木の上にいるトーマスに、お坊っちゃまが訊ねた。彼は腰掛けた壁から暇そうに足をぶらぶらとさせている。崩れた壁からは藤の花が垂れ下っている。 「こうやって一日中こいつらばかり見て暮らしてるとね。もう、俺も半分植物みたいなもんです。植物は、動物を食わいでしょ?」  でも、あんたは食ってしまいたいな。  木から飛び降りながら思わずそう口にしそうなって、少し驚いた。それから、納得する。  エリオットは頷いてから微笑むと言った。 「……アリジゴクとかハエトリグサとか、虫を食べる植物もあるよ。あ、もう昼食の時間だ。じゃあねっ」  馬の手綱を取ると、お坊っちゃまはふざけたしぐさで自分に向かって投げキッスを送った。何の衒いもない笑顔。 「困ったもんだよなあ」  小さくなってゆく後ろ姿を見送りながら、トーマスは足元のダイアンサスに話しかける。  シーザーのブラディピンクと呼ばれる、激しいピンク色の夏草。  日常生活で、人間に対して少年はほとんど自分の感情を口にしたことがなかった。その理由のひとつには、彼がはじめから多くの問題の解決を他者に望んでいないことと、またもうひとつには、彼の周りには秘密を守れそうな人間がいないことがあった。  彼の周りにいるのは仕事仲間である屋敷の使用人か、家族くらいのもの。使用人たちは彼とくらべてずっと年上か、お喋りな少女たちに限られていたし、家族は年老いた父親と幼い妹だけだった。  勿論大抵のことなら、噂になっても大したことはないだろう。だが、彼の秘密は罪深すぎた。わずかに年下の屋敷のお坊っちゃまに、彼は身も世もなく惚れていたのである。  いつの間に、彼に惹かれたのかはわからない。感情を表す大した言葉も知りはしない。  ただ欲望だけが育っていく。  姿が見たい声が聞きたい彼に触れたい彼を抱き寄せたい彼に口づけたい。  それなのに自分は一介の庭師。 「……困ったよなあ」  ……あと少しで唇が触れるところだったというのに。 「アルフレッド……?」  父親の声がして、トーマスは慌てて身を退いた。 「……親父」  そこにいるのは、剪定鋏を手にした年老いた父だった。いつもならここで、怒鳴り声が聞こえてくるところだ。ああ足元のフィラデルフィスが美しい…。  だが草の上の少年が緩やかに横たえていた身を起こした。物憂い仕草で父を見る。 「はじめまして」  父親は混乱したようだった。数年前に五十歳を過ぎてからめっきり記憶に衰えが見えはじめた。彼は、結婚したのも遅い。 「その息子の、エリオット・J・セードリックです」  美しい微笑を口元に浮かべて愛する少年は言った。相手が父親だというのに嫉妬を覚えてトーマスは苦く思った。  こんなことでは、彼がしかるべき相手と結婚したらどうなってしまうのだろう。俺は、ずっと幸福な老人になっていく彼を死ぬまで見続けるのだろうか? 「お坊っちゃまでしたか? 私は何分目の悪い庭師なもんですから、アルフレッド様かと思ってしまいました。まるでそっくりなものですから」  アルフレッド様はずっと前に亡くなってるじゃないか。  そう口にしそうになって、彼は結局黙った。見られる夢は、見せてやるべきだと思ったから。 「そんなに似ていますか?」  エリオットは首を傾げる。ああ、そんな可愛い仕草をしないで……。 「ああ、よく似とるよ」  誰に言うでもなく父は呟いた。そして微笑んで続ける。 「エリオット様も、きっとお父さまみたいな素敵な旦那様になられるでしょう」  少年は首を傾げたまま悩んでいる。最近気が付いたことだが、どうやら彼にとって父親に似ているというのは、あまり嬉しい事実ではないらしい。  仕方がない。彼の父親はある冬の朝、氷の張った池の中で死んでいたのだ。発見したのは、庭師の父のはずだった。  それは事故かもしれず、自殺かもしれなかった。  父は嬉しそうに少年の肩を叩くと、鼻歌を歌いながら行ってしまった。 「すっげえ……あの頑固親父が機嫌がいいなんて。あんたのお陰ですね、エリー」  それともそれだけ父が年を取った、ということかもしれなかったが。 「ねえトミー……続きしようよ?」  まったく前後を無視したエリオットの発言に、トーマスは思わず咽せた。まったく、スウィートなお坊っちゃまだ。  柔らかな唇が愛されるのを待って微笑んでいる。 「だっ駄目ですよ、俺に向かってそんなふうに笑っちゃ」  本当に、最後まで食っちまいたくなりますから。  わかっているのかいないのか、彼は無防備な笑顔を崩さない。トーマスはそろそろとエリオットを抱き寄せた。彼は大人しく抱かれている。  ああ、彼をめちゃくちゃにしてしまいたい。エリーは好き。だけど。乱れた顔が見たい。俺に乱されて、俺だけを思って。  トーマスは小さく溜息をつく。  目の端に咲き乱れる薔薇の影。自分の中にこんな狂暴な欲望があるとは、ついぞ知らなかった。  手にしているのは鬼百合。コネチカット・キングだ。薄い金髪に茶色い目。全体的にあの人にはあまり色がないからたまにはこんな派手な花もいいだろう。貴族的容姿と清楚さを合わせ持った美しい花だ。勿論一番彼にふさわしい花と言ったら薔薇だろうが、残念ながら自分の家には薔薇はない。 「アルフレッド…いや、あの方のところに持っていくのか?」  ぼんやりとトーマスを眺めていた父が聞いた。 「アルフレッドって、エリー…エリオット様のこと?」  思わず親しげにに呼んでしまって、彼は慌てて呼び直した。 「そんな名前だったかな」 「……今日は、特別。エリオット様のお誕生日だからさ」  トーマスは笑った。なんでもないんだ、親父。本当に。 「トーマス……約束してくれ」 「何、親父?」 「わしが天国でアルフレッド様に会ったときに、顔向けできないようなことはしないでくれよ」  ……どういう意味なんだ? 「……何言ってんだ親父。親父はまだまだ死なないし、俺は何もセードリック様に顔向けできないようなことなんてしてないさ」  本当だ。確かに少し、友情以上に抱きしめたかもしれない。確かに少し、男同士でキスはいきすぎかもしれない。だけど、それだけだ。  トーマスはじっと、父親の目を覗き込んだ。……俺の嘘が、親父にわかるだろうか? 「まあ、もっともわしが行くのは地獄だろうが……」  目を逸らすと、父親はぼんやりと呟いた。  抱き合う時にしか太陽の下に曝されない白磁の肌が彼を誘う。  絡まる腕が熱い。どうかしてる。  そう思いながら、抱き寄せる腕はとまらない。繰り返す意味も知らないのに、唇が繰り返す。 「エリー、愛してる」  エリオットは何度も頷いて接吻に応えた。無駄に育ってしまった長い腕が嫌だ。ああ、言葉なんて、何の意味もないのに。  求める少年の肉体は、まるで華奢だ。何物にも耐えられないような繊細な全身。こんなことを続けていたら、いつか壊してしまうんじゃないだろうか。  口元から恥じらいに満ちた小さな悲鳴が零れ落ちる。抑えた声にまた、煽られる。  あんたが欲しい。 「僕も、トミー、愛してる」  言葉なら返ってくる。体なら手に入る。  それなのに求めても求めても足りない。満たされない。 「銜えろよ」  あんたのすべてを俺に捧げて。  少年は、躊躇いを瞬間見せた。それから、潤んだ目を逸らして下半身に唇を這わせた。ひたひたと寄せてくる欲望の波。トーマスは、熱い吐息を撒き散らした。  たとえるなら彼は、花開く前に手折られた一輪の百合のようだった。一定の時が経てばこうやって美しい花を咲かせるけれど、それは自然なことじゃない。それは半分、亡骸のように手も足も折られて。帰るべき場所に、帰ることはない。ああ、エリー。  俺が折ったのか?  昔はその姿を見るだけで眩暈がするほど幸福だったのに。体とともに、欲望ばかりが育っていく。愛してるのに、愛されているのに。どうしてそのままでいられなかった? 「ねえトミー、……入れて」  涙を流しながら彼がねだった。抱き合う時に、彼は腕の中で何度か泣いた。どうすればいいのかわからない。泣きたいのは自分の方だ。  ああ、いつの間に俺はお互いをこんな遠くに感じるようになってしまったんだろう? 「どこに行ってきたんだ?」  馬屋番のジャックに殴られた。庭のことは一応庭師長の父がすべての責任を取ることになっていたが、父の奇行が目立つようになってから実質上庭師長は彼になっていた。 「アルフレッド様のお庭を掃除に……」 「アルフレッド様アルフレッド様っておまえはいつもそればかりだな。本当にちゃんと仕事してるのか?」 「ええ勿論」  トーマスは嘘を吐いた。嘘を吐く以外に、他にどうすることができただろう? 「冬になるから、忙しくなるぜ。トーマス。いつまでもガキだと思って甘えてんじゃねえよ」  トーマスは頷いた。ジャックは気に入らなかったが、しかし本当にその通りだった。  そして、恐るべき十六の朝が来る。  雪の朝だった。数日前から風邪をこじらせて父が床についていたので、トーマスはあまりエリオットとの逢瀬に割く時間がなくなっていた。控えめなノックがする。 「エリオット様?」  玄関の前に立っている相手ににトーマスは度肝を抜かれた。かすかに頬が青ざめている。 「大丈夫ですか? 体調を崩したみたいに見えますが」 「叔父に、殴られたので」 「ジョージ様が? ……どうして」  彼は上品に笑った。答えないつもりらしい。 「今日はね、ハリーのお見舞い。本当はそれは名目で、トミーと少しでも長くいたいんだけどね」  トーマスは驚いたが、それでも嬉しかった。ただ使用人の家を訪ねるなどという不用意な行動で、彼が自分の立場を悪くするのではないかと心配になる。 「父は喜ぶでしょうが……いいんですか、こんなところに来て…」 「バレなきゃ平気。秘密、守れるだろう?」 「勿論」  素早くキスをする。抱きしめられた彼は、うっとりと自分を見上げた。ああ、可愛い。このままずっと、ここにいればいいのに。 「アルフレッド?」  彼を見た父が、そう呟いた。彼の右手にはトーマスが今朝近所から分けてもらった南天の枝が握られている。小さなアパートの中の、小さな庭。  父は左手をそっと彼の頬に手を伸ばした。 「こんにちは、ハリー」  エリオットはそれしか言わなかった。夢を、夢のままにしてやろうと思ったのかもしれない。 「ああ、アルフレッド…迎えに、きてくれたんですね……」 「……」 「……夢でも嬉しい…ずっとあなたが、振り返ってくれない夢ばかり見てましたから……」  彼はそう囁くと、そっとエリオットの手を握った。いつもの譫言だと思っていたトーマスは、続けられた言葉に手にしていたナイフを取り落とした。 「私も、氷の中に連れて行ってくださいな、アルフレッド」  父は穏やかに微笑んだ。それが異様に見えて、トーマスは心臓の血が凍る思いがした。 「親父。親父まさか……」  あんたもセードリック様を愛していたのか? 「……許してくれ、マーサ……わしはやっぱり、アルフレッド様を一番……」  抱き寄せられたエリオットが小さく悲鳴をあげた。父の手を振り払って彼は部屋を飛び出した。父の手にしていた南天が床に落ちて、ぱたりと乾いた音がした。軽い衝撃で実が転がっていく。  床に落ちた南天の実は、まるで雪上の血痕のようだった。 「エリー!」  トーマスは慌てて少年を追いかけた。彼の行くところだったら自分の屋敷しかない。  セードリック家の屋敷へ続く坂道をトーマスは迷うことなく選んだ。コートも着ていない少年の後ろ姿が見える。雪の上を歩き慣れていないのだろう。今にも転んでしまいそうな危なっかしい足取りで、トーマスはすぐに彼に追いついた。  後ろから腕を捕まえると彼はまた悲鳴をあげた。 「エリオット様、落ち着いて……」  繊細な横顔が震えている。彼は雪のせいでなく真っ青だった。 「これのどこが落ち着けるって言うんだ? トミー、もう何もかも終わりなんだよ、すべては終焉に向かっているんだ。父にそっくりな僕とハリーにそっくりな君。どんな風に幸福になれるとも思えない!」 「エル、まだアルフレッド様について俺たちは何にも知らないじゃないですか…」  トーマスは宥めながら抱き寄せようとした。少年は全身で拒否を示す。 「僕たちのことはもう叔父さまにもばれている! ああトーマス、私から誘っておいて何だが、愛し合うことは終わりにしよう。友達どうしか、主人と使用人か、どちらかに」 「エリー……」  何も考える前に体が動いた。華奢な顎をとらえてディープキス。 「……トミー…」  それでもエリオットは弱々しい抵抗を試みた。しかし最後には官能に触れた声で溜息を吐き出した。ああ、口づけはまだこんなにも甘いのに。 「なあエル、俺たちはこんなに愛し合ってるのに、どうして幸福になれないんだ?」  恋人は目を逸らす。 「一番の幸福は、きっと昔に戻ることだ」 「戻れないから、こんなに苦しんでいるのに! エル、俺はあんたを愛しているんだ!」  今にも泣きそうな顔でエリオットは言った。 「ねえトーマス、どうしてわからないの? ハリーを見ただろ? 僕たちの関係は何も生まないんだよ! トミー、あれが四十年後の君の姿だ!」  叫んでから自分が言い過ぎたと気づいたのだろう、エリオットは罪悪感を顔に滲ませた。しかし、トーマスも言われた内容に気を取られていて、少年を思いやる余裕はなかった。  それは悲劇的な宣告だった。どこかでそう思っていたけれど、認めたくなかった自分の終焉。父親みたいに死ぬのはいやだ。  死ぬ前に、愛した少年の面影をひたすら求めて死んでいくようなのは。 「……もう終わりなんだ」  それだけ呟くと、エリオットは足早に立ち去っていった。彼を追いかける気力は、トーマスにはなかった。彼はとぼとぼと家へ帰ると、戸締まりをしてからセードリック家の屋敷に向かって歩いていった。雪の日でも、植物の面倒は見なくてはいけない。  父の葬式の朝も雪だった。  その日、トーマスは初めて男爵婦人を間近に見た。美しい人だった。  彼女は本を手にして彼の元にやってきた。 「メアリーに聞いたのですけれど。あなたは洗礼を受けていないのね、トーマス」  トーマスは帽子を取って婦人に答えた。 「父が受けていたとは知らなかったです。人間のすることには意味がないと良く言ってましたから」  そう言いながら、彼は姿の見えないエリオットが気になった。女の子の噂によると、体調が優れないとのことだったが……。 「生まれてすぐに死んでしまう子供もいるんですから、私個人的に原罪はそれほど強く信じているわけではないありませんけれど、イギリス人なのだし、受けてみたらよろしいんじゃなくて?」 「奥様。植物は日曜日も休んではくれません」  男爵婦人は優雅に溜息をつく。 「とりあえずこれをお持ちなさいな。あなたのお父さまの遺品よ」  古い本だった。内部に所々赤線で印がしてあった。黄ばんで端が擦り切れている。背表紙もない。 「……本ですか? この本は何について、書いてあるんでしょう?」  婦人はそれまで、彼が字が読めないということにまったく思い当らなかったらしい。そんな複雑な表情をした。 「誰かに読んでもらいなさい。聖書よ。神とキリストについて書いてある本だから」  秘密の花園の手入れをしてから帰ってくると、いやらしい微笑みを浮かべて、ジャックが待っていた。 「またサボリか? いいご身分だな坊主」 「……違うって言ってるでしょう。アルフレッド様の…」  もちろん彼がいるとは思わなかったが、毎日かすかに期待を持ってそこに通ったことは事実だ。しかし、もし再会しても口にすべき言葉はなかったが。  ジャックが肩をすくめる。聞き飽きたと言いたいのだろう。 「親父さんが言ってたから信じてたけど、そもそもアルフレッド様の庭なんて本当にあるのか? あるんだったら見せてみろよ」 「それは出来ません。作業の時以外誰も入れるなというのが父に遺した旦那様の遺言ですから」  そう言いながらトーマスはぼんやりと考えた。……誰がジョージ様に告げ口したんだ? 「ぼけた年寄の譫言を、さぼる理由にしてるだけじゃねえのか? え?」  次の瞬間、トーマスは馬屋番に殴りかかっていた。彼がジョージ様に告げ口した男だったのか、本当のことはどうでも良かった。ただ、彼を殴りたかっただけだ。  庭師長であるジャックを、気絶させるほどに殴ったトーマス・ライトンの処置は、ジョージ・セードリックによって早々に決定された。  すなわち、不祥事を引き起こしたトーマス・ライトンを解雇する。  トーマスは手にしたスーツケースをセードリック家の玄関脇に置くと、そのドアをノックした。  年若いメイドがそれを開ける。彼が男爵婦人に面会したい旨を伝えると、意外にあっさり通された。 「あの、奥様」  男爵婦人の隣に、見覚えのある少年が座っている。トーマスの胸は疼いたが、手にした帽子を握りしめて、それを圧し殺した。 「トーマス。今回のことは残念だったと思っているわ。あなたもハリーも随分家のためによくやってくれたのに」 「……それは、もう宜しいんです、奥様。あの、ヨークの親戚の家で働かせてもらうことになったんで。俺、今日はメアリーのことでやって来たんです。……俺の罪は、彼女の罪ではないですから、奥様。どうか彼女の面倒を今まで通り見ていただけませんか?」 「その親戚の方は?」 「親戚というか、まあ無理やり雇ってもらっただけなんで。とっても二人も頼めなくて。それに、メアリーはここが好きです」  男爵婦人は微笑んだ。 「わかったわ、トーマス。メアリーのことは任せてちょうだい。いくらジョージが倹約家だからといって、私は女の子を路頭に迷わせたりはしないから」 「あ、ありがとうございます、奥様」  トーマスは更に帽子を握りしめて言った。自然に笑みが零れる。これで、心配することはもうないはずだ。あとは電車に乗るだけだった。 「僕に何も言わずに消えるつもり?」  扉に手を掛けた所で、愛しい声が聞こえた。トーマスは目を閉じる。出来ることなら、聞かずにここを去りたかった声だった。 「エリー…オット様」  少年は少年らしい不服げな表情で、伯母の傍から立ち上がる。 「俺ごときが、あなたに掛ける言葉なんてありません、エリオット様」  ドアの傍まで駆け寄って来たエリオットは、トーマスの手を掴んで言い募った。 「…ねえトーマス、どうしてジャックと喧嘩なんてしてしまったの? 僕のせいなの? 僕が君は破滅すると言ったから? 僕たちに、未来がないと言ったから?」 「エリオット様、そんなことを」  トーマスは男爵婦人の視線を全身に感じていた。そんなことを、彼女の前で口にしてはいけない。 「構わないよ、今更そんなことは」 「……エリー…」 「僕がいけなかったんなら謝るよ。だからここにいてよ、トーマス……消えてしまわないで。わかったんだ。僕は、君がいなくては生きていけない」  この言葉を、もっと前に聞きたかった! 「……それは、もう無理です。……あなたが俺に、死刑宣告をしたんですから」  トーマスは空を仰いで呟いた。 「ずるい! 僕に全ての責任を押しつけるつもり? 怯えていたのは、君も同じなのに!」 「……ああそうです。……何もかも悪いのは俺なんですよ。…罪深い俺が、あなたを堕落させたんです。だから、もう会いません」 「トーマス!」  叫ぶと、彼は驚くほど強い腕でトーマスを引き寄せて口づけた。 「エリオット!」  男爵婦人の悲鳴が響く。トーマスは慌てて体を引き離した。 「エリオット様っ」  押し返された少年は不敵な笑みを浮かべていた。トーマスは躊躇った。いつの間に、彼はこんなに強くなったのだろう。 「ねえトーマス、地獄へ行くの?」 「…聖書によれば、そうらしいですね。俺は生まれたときに洗礼を受けませんでしたから」 「ハリーは、意味がないと?」 「親父は、自分が地獄へ堕ちるのだと言いました。洗礼を受けても意味がないというのはそういうことではないでしょうか……彼は、心は敬虔なクリスチャンだったんですね」 「それは、彼がお父さまを愛したことを後悔したことを言っているの?」 「たぶん、それでずっと悩んでいたのでしょうが……」 「君は? 僕を愛したことを後悔している?」 「いえ。俺は……クリスチャンじゃありませんから。聖書も読めませんし。……父は、持っていたようですが」 「洗礼は受けさせられたけど、僕もクリスチャンではない。僕は永遠の魂を信じない。だから堕落しても平気だ」 「……それは困りましたね。奥様が嘆かれます」  トーマスは言った。その婦人はというと、何を言っていいのかわからないのか、震えながらただぼんやりと二人の遣り取りを眺めている。 「僕が祈るのは、ただそれだけの理由……。伯母さまを嘆かせないため、それだけだった。でももう言ってしまった。だからもう僕には恐れるものは何もない。君だけいれば何もいらない。僕を地獄の涯まで連れて行って、僕の悪魔……」  一方トーマスも、愛を囁く少年に戸惑っていた。俺が間違っていたんだろうか、俺が彼をここまで堕落させてしまったんだろうか。俺が彼の愛を求めすぎたから? 「駄目ですよ。あなたはセードリック様なのですから」  彼は囁いて、部屋から出る。それが彼の結論だった。閉ざされたドアの向こうから少年の悲鳴が聞こえた。 「トミー!」  トーマスはそれを無視して歩きだす。  突然、自分の頬が濡れていることに彼は気づいた。ああどうして俺は、あんなに必死に愛されることを望んでしまったんだろう。  その後少年がどうなったかを、長い間トーマスは知らなかった。

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