4 / 6

シャーロック・J・セードリック

 近頃のエリオットは自殺を図っているとしか思えない。肉どころか、植物も口にしないし、雪の中でも平気な顔で一日中庭に出ている。 「風邪を引くよ、エリオット」  私はそう言うと、ぼんやりと私を見ている従兄の肩にコートを掛けた。 「シャーロック、君にはここに入る資格はないだろう?」  やつれた顔で彼は呟いた。 「出ていってくれ」  私は眉を顰める。 「この家の主人は私だ、エリオット。この庭も」 「一人にしておいてほしいんだ、シャーロック。お願いだよ」 「エリオット! そうしていると君はいつか体を壊すよ」 「本望だ」 「失恋したくらいで自殺なんか図るな、エリオット。私なんか愛した相手に自殺されたんだぞ」  そのことを口にすることは、非常な苦痛を伴った。だが、エリオットは笑って私をおだやかに拒否しただけだった。 「シャーロック、僕を否定しないでくれないか?」  男女を問わず愛した人間は沢山いたが、それにしても初めて淡い想いを抱いた少年が、目の前で自殺した時にはさすがの私も生きる気力を失ったものだ。彼は常に憂欝そうな顔をした、寄宿舎学校の友人だった。  彼への想いは秘密だった。だがある日、彼は私を呼び出して、そこで私を試してみせた。 『君が俺のことを愛してるって言うのは本当か?』  私は羞恥に頬を染めた。 『死んでみせろよ。そうしたら信じてやる』  私は驚いて、何を言われているのか理解が出来なかった。何もしない私に、彼は悲しそうに溜息をつくと、教室の窓を開けてひらりと飛び降りていってしまった。  それ以来、夜はきちんと眠れない。  だから私は、エリオットがトーマスと抱き合っているのを知った時、彼は私の味方だと思った。勝手だろうか? しかし私には、味方はほとんどいないのだ。 「ジョージ、どうにかしてトーマスを呼び戻せないだろうか?」  私は叔父のジョージにそう尋ねた。数か月前、母が過労で突然亡くなって以来、実質上この屋敷の実権を握っているのは不幸なことに彼だった。ああ、私がもう少し年上だったなら! 「それは難しいですな、シャーロック様。もはやあの不祥事は屋敷中の者が知るところですし、そんなことになったらエリオットの立場がないでしょう」  あの不祥事、というのは勿論彼が、エリオットと肉体関係を結んでいたことを指している。いったい誰が広めたのか、それは屋敷中で囁かれていた噂だった。誓って言うが、私ではない。 「しかし、このままではエリオットは死んでしまう」  ジョージは悩んでいる、というような仕草を作った。しまった、と私は思う。彼は心の中で、どうせならエリオットが死んでしまった方が彼には都合が良い、と思っているのだ。そして私も、出来たら偶然死んでほしい、と思っているに違いない。 「シャーロック様は、おかしなことを言いますな? エリオットが堕落したのは、ひとえにあの悪魔のせいでしょう? 彼を誘惑する者がいなくなったのですから、清らかにはなっても死にその身を求められるとは思えませんが……」  だがエリオットは、トーマスを愛しているんだ! そう言いたくなって私は堪えた。それは異様なことに聞こえたからだ。私は自分の身を以て、同性に対する愛情について知っている。だが、叔父は知らない。  彼にあるのはソドムに対する下卑た興味と、金銭欲だけだろう。私はせめて、彼が結婚していれば良かったのにと思った。そうすれば、私の家以外にも、少しは興味の対象が増えただろうに。  だがしかし、少しは幸福なこともあった。メアリーの結婚式だ。  結局身寄りのなくなってしまったような立場の彼女が新しい家族を見つけたことは、私たちにとって非常な喜びだった。相手の男は、フレッドといってトーマスの後に新しく雇われた庭師だった。  私は彼女を私の屋敷に招待した。彼女は驚いた顔をして、それから私に感謝を示してみせた。私は家中の者に休暇を出した。彼女の人徳か、みんな彼女を愛していたので、その日は、家中で大騒ぎになった。もっとも、エリオットだけはひとりでまた叔父上の秘密の花園に隠れていたのだが。  そして、私は彼を見つけたのだ。大きな木の上に。  随分と面変わりして、男らしくなった彼を。 「トーマス……!」  隠れていたらしい彼は私を見つけると、帽子を取って小さく会釈をした。 「ああ、シャーロック様」  私は胸がいっぱいになって、もう何を言っていいのかわからなくなった。彼を見て思い出すのは、懐かしい少年時代のことだった。大人しくて優しい彼は、子供の私ともよく遊んでくれたので。 「申し訳ありません。俺に、お屋敷に来る資格なんて、ないんですけど。メアリーは、俺の唯一の家族みたいなものなんで…、結婚するって聞いて、居ても立っても、いられなくて」  私は思わず、涙を流しそうになった。どうして彼が、ここにいられなくなったのだろう。あんなに優しかった、彼が。 「トーマス……あの、叔父さまの庭に、行って。エリオットが」 「シャーロック様。俺、エリオット様には、会うつもりはありません」 「行って。エリオットを殺したくないなら、行って」 「殺し……って、どういう…?」 「彼は、あなたに会えないなら、死んだ方がましだと思ってるみたいだから」 「……」  彼はさっと音を立てて木から飛び降りる。素早い。もうそこには誰もいなかった。私は声を立てて笑った。おかしかった。  恋人どうしの間に、どのような会話が交わされたのか私は知らない。次に私が見たのは、微笑みを浮かべて私の部屋をノックしたエリオットだった。 「シャーロック」  彼は私に向かって微笑んだ。彼がそんなに笑ったのを、久しく私は見たことがなかった。 「エリオット」  私も思わず微笑んでいた。彼が笑えるのが、私にはとても嬉しかった。しかし、次の瞬間、私は地獄に突き落とされた気持ちになった。 「僕は家を出ていくよ」 「エリオット? どうして?」  つまらない質問だ。トーマスと生きていくつもりに決まっている。 「ここでは、僕は生きていけない」  彼はそれだけ言った。 「ここを出てどうやって、生きていくというんだ?」  学校に行ったこともない世間知らずの貴族と、一介の庭師。ふたりとも希望に満ちた就職先は見当りそうにない。きっと彼もそんなことは知っている。 「……なんとか、なるだろう」 「ならないよ!」 「それでも、僕はここにいたら死んでしまう……それは事実なんだ、シャーロック」 「……」 「どうせ死ぬなら、愛した人の側が良い…」  彼はまた微笑んだ。私はそれをじっと見つめた。私のものではないような、圧し殺した声が唇から零れた。 「……私を置いていくのか?」  私は自分でも驚いていた。それは、私が初めて少年の顔を彼に見せた瞬間だった。 「シャーロック……」 「……私にはもう誰もいないんだ!」  私は思わず涙を零した。私はここでひとりで、叔父と家を取り合っていくのに! どうして彼はひとりで幸福になってしまうんだろう。 「……ごめん」  彼の表情に憐憫が浮かぶ。ああ、憐れまれたいわけではないのに! 「あの、すみません。シャーロック様」  私は思わず息を止めた。どうしてこんな所に…私の泣き顔を見られただろうか? 「トーマス? どうしてここに…」  私は、エリオットの後ろに立っていたトーマスに気づかなかった。随分背が高いのに気づかなかったのは、彼自身、ドアの後ろに身を隠していたからだろう。私の視線に曝されて、彼らはすぐに身を離したが、私は、彼らの絡み合った指を見てしまった。 「申し訳ありません。でも、あの、シャーロック様にはちゃんとお話したかったので」  色褪せた帽子を握りしめて、トーマスは言った。それから彼は膝を折って、私の前に跪いた。 「セードリック様、本当に申し訳ありません、エリオット様を奪っていくような形になってしまったことは。…でも、彼がいないと俺は、生きている心地がしないのです。今日、彼に会ってそれがよくわかったんです。彼がいないときの俺は、みだらでも、狂暴でも、罪深くもないかもしれませんが、また、優しくも、感情的でも、穏やかでもないのです。俺は、この人のために生まれてき、俺の幸福も悲しみも、また彼とともにしかありえないのです。どうか、お許しください」  自分より随分年上の男に乞われて、この時の私に何が出来ただろう。 「シャーロック、僕もだよ。どうか許して…」 「……そうやって、みんな私を置いていくんだ…どこへでも行けばいいよ、エリオット」  エリオットは顔を歪めた。私は罪悪感にかられる。トーマスと違いこの人は、年上のくせになんとも頼りない顔ばかりする。 「……幸せになって、エリオット……幸せにならなきゃ、許さないから」  私は言った。私に、他に何を言えと? 「ありがとう、シャーロック」  エリオットはとてもきれいな顔で微笑むと、屈みこんで私の額にキスをした。 「君も、いちはやく幸福を見つけることを願っている」 「俺も、です」  トーマスも、私に向かって頭を下げてそう言った。  私は彼を睨みつけたまま頷いた。そうしていないと、また涙が零れそうだった。 「エリー」   愛しさをこめて、彼は従兄をそう呼んだ。従兄は誰にも見せない笑顔でそれに応えた。  私は、トーマスを好きだったんだろうか? おそらくは、年上の少年に対する少年らしい憧れで。それではエリオットは?  私はどちらかといえば彼を軽んじていたのではないだろうか。私と同じくセードリック家の長男でありながら、学校に行かない彼を。私は、彼を羨んでいたのではないだろうか。どんなプレッシャーの元にも置かれない彼を。  そして私は守りたかった。いつも。簡単に壊れてしまいそうな、彼を。  私では無力であるのが悔しい。 「さよなら、シャーロック」  従兄の優しい声。私はソファに座りこむと目を閉じた。扉が閉まる音がする。頬に、涙が零れ落ちるのがわかった。私はしばらくその姿勢のまま、ひとりで泣いた。

ともだちにシェアしよう!