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2-1:午前8時の逢瀬 (6)
入り口をくぐった神崎さんは、いつもよりはるかに速いペースで滑るように陳列棚の間を通り抜け、あっという間に俺の前にやってきた。
俺が何か言うより先に、腕の中に抱えていたものをカウンターに置いていく。
黒烏龍茶、わかめサラダ、そして、カルボナーラ。
いつも通りのラインナップを前にしたら、頭の中に立ち込めていた暗い霧が一気に晴れて、頬の筋肉が緩んだ。
「いらっしゃいませ」
「……うん」
「温めますか?」
「……うん」
「ポイントカードはお持ちですか?」
「……うん」
「フォークでよろしいですか?」
「……うん」
「……」
「……」
……やばい。
神崎さんが『うん』しか言ってくれない。
それに一切俺と目を合わせてくれない。
しかも『うん』と言ってはいるけどポイントカードは相変わらず忘れてるみたいだし、本当はお箸派なのにそこも『うん』で済ませている。
いつもならできるだけポケットから小銭を減らそうと努力するのに、当たり前のように野口英世を差し出してきた。
……どうしよう。
神崎さんが俺の予想をはるかに超えるレベルで照れている上にそれを全然隠し切れていないから、努めて平静を装うつもりだった俺まで顔が熱くなってきた。
ただひとついつも通りなのは、電子レンジの中で着実に温められていくカルボナーラだけだ。
「せ、千円お預かりいたします」
「……あのさ」
「はいっ!?」
勢いよく動きすぎて、手の中の千円札がペラリと折れ曲がった。
神崎さんが、居心地悪そうに俺の視線から顔を背ける。
その横顔はほんのり桃色だ。
「佐藤くん、朝……は仕事何時から?」
「9時から、です、けど」
「……ふぅん。だからいなかったのか」
「えっ?」
「……なんでもない」
「あ、はい……」
「……」
「……」
ど、どど、どうしよう。
本気でどうしたらいいのかわからない!
「あ、あの、神崎さーー」
とりあえず何か言葉を、と口を開いた時、高い電子音が空気を裂いた。
振り返ると、縦積みされた電子レンジの下の方が残り時間ゼロになって点滅している。
慌てて取り出して、おしぼりをひとつと箸を一膳、一緒に袋に入れた。
先におつりを渡してから、薄茶色の袋を差し出す。
「カルボナーラです。お気をつけてお持ちください」
「……ありがとう」
神崎さんは、上目遣いでチラリと俺を見てから、ゆっくりと踵を返した。
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