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2-2:午後8時のさざ波 (3)
「おかえりなさいませ、神崎様」
「こんばんは」
「佐藤様」
「……こんばんは」
この二週間の成果、その1。
コンシェルジュの田崎さんが俺の名前を覚えてくれた。
いつも変わらない笑顔が眩しい。
軽く会釈を交わして、ひとりさっさとエレベーターに向かう神崎さんを追いかけた。
相変わらずエレベーターには俺たちだけだ。
向かいで壁にもたれる神崎さんは、淡々と増えていく数字を見つめている。
ふたりでひとつずつ分け合ったスーパーの袋が、シンとした空気の中に微かな音を立てていた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
すっかり見慣れた2905室の扉を潜り、中に身体を滑り込ませる。
よし、これで家に着いた。
「神崎さ……」
「着替えてくる」
抱きしめようと伸ばした両手が、呆気なく宙を掴む。
玄関に入るなり神崎さんは袋を俺に預けて、すぐに奥に消えてしまった。
取り残された俺は神崎さんが脱ぎ捨てた靴を揃えて、自分の靴を隣に置いた。
しょうがないかと思いつつ、不完全燃焼のままくすぶる熱をため息でやり過ごす。
神崎さんはスーツを3着で回しているらしく、シワや汚れをつけたくないからと何より先に上着を脱ぎ捨てる。
リビングの奥の部屋にこもって私服に着替え、そしてようやく出てきて手を洗うのがいつもの流れだ。
だからなのか、俺はまだ玄関先でのキスを達成したことがない。
物足りないけれど、この着替えという名の逃亡劇に神崎さんの照れ隠しも含まれていることはなんとなく気付いている。
気づいていて、かわいいと思うし、ますます好きだ好きだ好きだかわいいかわいい、とは思う、けれど。
玄関に入るなり獣のように互いを求め合いながら交わすキスに憧れる……なんて言ったら、きっとまたこの少女漫画野郎って怒られるんだろうな。
ああ、でも、キスーーしたい。
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