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4ー3:午後9時の涙 (5)
エレベーターが柔らかい音で鳴き、ゆっくりと扉がスライドした。
理人さんが『開』ボタンを押して俺を先に降ろしてくれる。
踏み慣れた廊下を歩きながら、半歩後ろをついてくる理人さんをチラリと伺うと、視線が斜め左下を向いていた。
包帯が巻かれたばかりの右手を庇うように、左手が覆っている。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「手、痛みますか?」
「あー……痛いけど、大丈夫」
理人さんが、曖昧に微笑んだ。
少しでも笑顔が戻ったことに安堵しながら、その左手をそっと取る。
繊細な指がギクリと強張り、でもすぐにキュッと俺の右手に絡みついてきた。
冷えた指先に理人さんの体温が心地よくて、たまらず息が漏れた。
肺が軽くなるのと反美麗するように、身体がずっしりと重くなる。
そして、初めて気付いた。
自分の全身が、緊張で強張っていたことに。
まさか皮むき器の傷が原因で理人さんが命を落とすわけがない。
頭の中では確かにそうわかっていたのに、真っ赤な右手を見て一気に血の気が引いた。
無意識に焦っていた。
どうしよう。
どうすれば。
この人を失いたくない。
その思いだけが、俺の心を支配していた。
完全に冷静さを失っていたんだと思う。
情けない。
あの場に三井さんがいてくれて、本当に助かった。
「三井さん、看護師だったんですね」
「あー……うん」
「田崎さんと仲良さそうでしたね」
「そうか?」
「穂って名前で呼んでたし」
理人さんがわずかに瞠目する。
「そうだったか?……全然気づかなかった」
「コンシェルジュさんがふたり一緒だったのも珍しいし」
「引き継ぎだろ」
「引き継ぎ?」
「シフト交代の時はたまにあるよ」
なるほど、と心の中で納得しつつ、俺に手を引かれる理人さんを盗み見る。
相変わらず視線は斜め左下で固定されていて、まつ毛が頬に薄い影を作っている。
なにより、覆っている空気が重い。
トボトボ。
そんな言葉が似合いそうな雰囲気だ。
「理人さん?」
「ん?」
「やっぱり、手、痛いですか……?」
「あ、いや、ほんと、大丈夫。なんで?」
「なんか元気なさそうだから……」
「あー……」
「理人さん……?」
なにも応えずに、理人さんはたどり着いた玄関の扉を見上げた。
交わっていた手をそっと解き、取手に手をかける。
ゆっくりと力を込めて、でも、いつものように簡単に開くはだった扉は、ガタン、とわずかに動いただけだった。
「あ……」
「しまった……」
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