166 / 492
4ー3:午後9時の涙 (6)
フロントに舞い戻った俺たちを迎えたのは、田崎さんと三井さんの生ぬるい笑顔だった。
三井さんにいたってはフルフルと肩を震わせていたから、必死に笑いを堪えていたんだと思う。
結局ちょうどシフトを終えて帰るところだという田崎さんが29階までついてきて、マスターキーで鍵を開けてくれた。
丁重にお礼を言って田崎さんを見送っている間に、理人さんはさっさと家に入っていってしまった。
挨拶もしないなんて珍しい。
不思議に思いながらその背中を追いかけると、寝室でシャツを脱いでいるところだった。
右側の袖口が、赤く染まっている。
「理人さん」
「ん?」
「カレー、俺が作りますね」
「えっ、でも……」
上半身肌色になった理人さんが、勢いよく俺を振り返る。
その拍子に右手が痛んだのか、全身を強張らせた。
理人さんの周りを漂う空気のドヨーン度が、一気に増加する。
俺はあふれそうになる笑いを飲み込んで、その背中を後ろからそっと包み込んだ。
ビクリと跳ねた身体に愛おしさを感じながら、左手で理人さんの右腕をゆっくりと伝っていく。
俺の指が白い包帯にたどり着くと、理人さんがコクリと喉を鳴らした。
「手、痛いでしょ?」
「……痛くない」
「プッ、なんでそこ意地張るんですか」
「だって……」
「俺のために頑張ってくれたんですよね?」
「でも、結果失敗じゃ……んっ」
顎を捕らえて、への字で尖った唇を塞いだ。
スルリと背中に手を這わすと、理人さんの瞳がこれでもかと大きくなった。
至近距離で見つめ合いながら、ただ触れるだけの口付けをする。
俺はもう一度滑らかな肌を撫でてから、ゆっくりと唇を離した。
「すぐできますから」
「え、なにが……?」
「カレー。待っててください」
「あ、うん……」
理人さんの瞳が見開かれたまま、部屋を出ようとする俺の動きを追ってくる。
俺はわざと左右に動いてから、それでも俺から視線を離さない理人さんを振り返った。
「理人さん、風邪引きますよ」
「へ……?」
「ちゃんと服、着てくださいね」
「っ!」
理人さんがようやく我に返り、息を呑む。
視線を右往左往させてクローゼットから綺麗なシャツを取り出すと、慌てて腕を通した。
「……って!」
右腕が袖から出た瞬間、これでもか顔をしかめる。
でもすぐに、ハッとしたように俺を見上げた。
きっと俺の頬は、たるったるに緩んでいるはずだ。
「ほら、やっぱり痛いんじゃないですか」
「……」
「じゃ、カレー作ってきますね」
「……くそう」
なんとなくウキウキしながらキッチンに向かう俺の背中に、恨めしげな呟く。
俺はたまらずにこっそりと笑った。
ともだちにシェアしよう!