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4ー3:午後9時の涙 (6)

フロントに舞い戻った俺たちを迎えたのは、田崎さんと三井さんの生ぬるい笑顔だった。 三井さんにいたってはフルフルと肩を震わせていたから、必死に笑いを堪えていたんだと思う。 結局ちょうどシフトを終えて帰るところだという田崎さんが29階までついてきて、マスターキーで鍵を開けてくれた。 丁重にお礼を言って田崎さんを見送っている間に、理人さんはさっさと家に入っていってしまった。 挨拶もしないなんて珍しい。 不思議に思いながらその背中を追いかけると、寝室でシャツを脱いでいるところだった。 右側の袖口が、赤く染まっている。 「理人さん」 「ん?」 「カレー、俺が作りますね」 「えっ、でも……」 上半身肌色になった理人さんが、勢いよく俺を振り返る。 その拍子に右手が痛んだのか、全身を強張らせた。 理人さんの周りを漂う空気のドヨーン度が、一気に増加する。 俺はあふれそうになる笑いを飲み込んで、その背中を後ろからそっと包み込んだ。 ビクリと跳ねた身体に愛おしさを感じながら、左手で理人さんの右腕をゆっくりと伝っていく。 俺の指が白い包帯にたどり着くと、理人さんがコクリと喉を鳴らした。 「手、痛いでしょ?」 「……痛くない」 「プッ、なんでそこ意地張るんですか」 「だって……」 「俺のために頑張ってくれたんですよね?」 「でも、結果失敗じゃ……んっ」 顎を捕らえて、への字で尖った唇を塞いだ。 スルリと背中に手を這わすと、理人さんの瞳がこれでもかと大きくなった。 至近距離で見つめ合いながら、ただ触れるだけの口付けをする。 俺はもう一度滑らかな肌を撫でてから、ゆっくりと唇を離した。 「すぐできますから」 「え、なにが……?」 「カレー。待っててください」 「あ、うん……」 理人さんの瞳が見開かれたまま、部屋を出ようとする俺の動きを追ってくる。 俺はわざと左右に動いてから、それでも俺から視線を離さない理人さんを振り返った。 「理人さん、風邪引きますよ」 「へ……?」 「ちゃんと服、着てくださいね」 「っ!」 理人さんがようやく我に返り、息を呑む。 視線を右往左往させてクローゼットから綺麗なシャツを取り出すと、慌てて腕を通した。 「……って!」 右腕が袖から出た瞬間、これでもか顔をしかめる。 でもすぐに、ハッとしたように俺を見上げた。 きっと俺の頬は、たるったるに緩んでいるはずだ。 「ほら、やっぱり痛いんじゃないですか」 「……」 「じゃ、カレー作ってきますね」 「……くそう」 なんとなくウキウキしながらキッチンに向かう俺の背中に、恨めしげな呟く。 俺はたまらずにこっそりと笑った。

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