171 / 492

4ー3:午後9時の涙 (11)

理人さんは、俺のために、俺から離れていこうとしている。 俺のために泣きながら、俺のために、俺から離れていこうとしている。 「うっ……ひっ、く……」 幼い子供のように両手で何度も顔を拭いながら、肩を震わせている。 その整った顔が、今は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。 気付かなかった。 こんなにも、好きでいてくれたなんて。 知らなかった。 こんなにも、大切に思われていたなんて。 「……理人さん」 名前を口にしただけで、想いがあふれそうになる。 「俺には、男同士の恋愛関係がどこまで普通じゃないのか分かりません。もし周りが俺たちのことを知った時に、どんな反応が返ってくるのか、まだ、考えたこともありません」 ただ、嬉しくて。 気持ちを伝えられたことが、嬉しくて。 応えてもらえたことが、嬉しくて。 なにも、考えていなかった。 「理人さんが今までどんなことを見てきたのか、言われてきたのか、俺は知りません」 理人さんは、こんなにも俺のことを考えてくれていたのに。 「でも俺には、俺の両親が理人さんと一緒にいる俺を見て、俺たちを否定するとは思えません。俺の家族は、いつも俺の気持ちを尊重してくれます。俺の幸せを望んでくれています。だからむしろ喜んでくれると思います。俺の両親はそういう人たちなんです」 いずれ家族に話さなければならない時期(とき)がくる。 両親は驚くだろう。 怒りもするかもしれない。 でもきっと、最後には俺たちを認めてくれると思う。 もしかしたらそれは、単なる俺の浅はかな希望に過ぎないのかもしれない。 今理人さんを手放さなければ、俺はすべてを失うのかもしれない。 「それに兄貴に子供がいるんで、孫とかそういうのもとっくに問題じゃありません」 俺たちは大人だ。 好きという感情だけで突き進むことはできない。 自分たちが許しても、きっと周りが許してくれない。 社会が、家族が、友人が、許してくれない。 「もし友達が離れていったとしても、そいつらは本当の友達じゃなかった、ただそれだけのことです」 わかっている。 現実が時に恐ろしく残酷に牙を剥くことも。 それでも。 「俺は、理人さんの気持ちが知りたい」 それでも俺は、理人さんを諦めたくない。 「家族とか友達とか、世間体とか普通とか。そういうものを全部取っ払った時、最後に残る理人さんの気持ちが知りたいんです」 理人さんが、好きだから。 「理人さんは、俺としたいって思ってくれないんですか」 好きだから、したい。 「俺は、思ってます」 好きだから、繋がりたい。 「理人さんのこと、もっともっと知りたいです」 好きだから、知りたい。 「理人さんを、感じたいです」 好きだから、感じたい。 「セックスだって、理人さんだからしたいんです」 好きだから、ひとつになりたい。 「俺が傷付くのが怖いなら、俺は傷付いたりしません」 この先、どんなことがあったとしても。 「自分のことは自分で守ります」 どんなことを言われたとしても。 「理人さんを傷付けるものは、俺が全部壊します」 ずっと、一緒にいたい。 「俺、浮かれてました。ずっと好きだった人が自分の気持ちに応えてくれて、嬉しくて舞い上がってました。だから先のことなんて全然考えてなかった。いろんなこと、ひとりで悩ませてごめんなさい」 視界が、揺らぐ。 そこに閉じ込められた物の輪郭が、ぼやける。 理人さんを、除いて。 「これからはもう、ひとりだなんて言わないでください」 俺の世界に、理人さんだけが確かなものとして存在している。 「楽しいことも、嬉しいことも、辛いことも、怖いことも、傷付くことも。全部一緒に感じていきたい」 ……ああ。 「好きです」 ああ、俺は。 「好きなんです、理人さん」 これほどまでに誰かを愛おしいと思ったことがあっただろうか。

ともだちにシェアしよう!