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閑話:午前10時のアクアリウム (3)
佐藤くんから10分遅れで『ふ頭水族館前駅』のホームに降り立ち、5番出口へのヒントを探す。
すると、ひときわ大きな看板に『ふ頭水族館へは5番出口から』の文字と、巨大な矢印が書かれているのを見つけた。
この駅に降り立つ人の多くが目的をひとつとしていることを考えれば、そのサイズにも納得がいく。
示された通りに左に歩いていくと、たくさんの家族連れや男女のカップルが同じ方向に向かっていた。
水族館なんて、いつ以来だろう。
楽しみだ。
群れにつられるようにぞろぞろと歩いていると、5番出口の階段を降りてきた2人組の女の子とすれ違う。
「今すっごくかっこいい人いたよね!」
「水族館デートかな?」
「いいなー、あんなかっこいい彼氏!」
興奮気味に言い合いながら、人混みをかき分けるようにして駆け下りていった。
日曜日だし、待ち合わせしている人も多いんだろうな。
そんなことをぼんやり考えながら、出口に続く階段を小走りで上っていく。
あと4段で上りきる、というところで、俺は足を止めた。
佐藤くんがいた。
待たせてしまったから、早く声をかけたいのに。
足が、動かない。
その姿は、まるで雑誌から抜け出てきたみたいだ。
ガードレールに浅く腰掛け、色の濃い細身のジーンズに包まれたその長い脚を惜しみなく晒している。
黒いコートにマッチした黒いマフラーが首元を覆い、同じ黒い手袋に包まれた手がスマホを握っている。
グレーのハンチングハットを深くかぶっているせいで目元は見えないけど、口元が淡い弧を描いているから、全身を包む雰囲気はとても柔らかい。
帽子からはみ出たわずかにうねった黒髪が、頬に沿って輪郭を描いていた。
なんだこれ。
誰だ、これ?
佐藤くん、だよな。
これはまずいだろ。
かっこいい。
いや、いつもかっこいいけど。
なんか今日は、違う路線でかっこいい。
「理人さん!」
階段を最後まで上りきれないまま佐藤くんを眺めていたら、先に気づかれた。
頑なに動こうとしなかった足を叱咤して、なんとか地上にたどり着く。
すぐに、もたれていた身体を起こして、佐藤くんが満面の笑みで迎えてくれた。
「おはようございます!」
「お、おはよう」
「晴れてよかったですね」
「う、うん」
「どうかしましたか?」
「あ、や……」
「眠い?」
「いや、その、かっこいいな……って」
「えっ?」
「いつもと雰囲気、違う」
これでもかと目を見開いたあと、佐藤くんがはにかんだように笑った。
「理人さんとデートだから、張り切ってみました」
頬に全身の熱が集まってくるのを感じる。
ずるい。
そんな言い方されたら、どうしようもなく嬉しくなるじゃないか。
なにも言えないまま俯いていると、クスリと微かな笑いが聞こえ、佐藤くんの大きな手が頭の上でポンポンと跳ねた。
そして、行きましょうか、と歩き出す。
半歩遅れて佐藤くんの背中を追いかけながら、いつもより早く離れていってしまった手をなんとなく残念に思った。
人の目があるからしょうがないとは分かっているけど、少し物足りなくて、ほんの少しだけ……淋しい。
「今日は冷えますね。理人さん、寒くないですか?」
「あー、電車があったかかったからちょうどい……」
唐突に、ふわり、と柔らかい感触が首を包んだ。
向かい側で、佐藤くんが目尻を下げて俺を見ている。
その首元から、黒いマフラーが消えていた。
「寒そうだから」
「……ありがとう」
なんとなく照れ臭くて、顔を埋めた。
あー……、柔らかいし、ほんのり残っている熱があったかいし、なんかいい匂いがする。
あ、これ、佐藤くんの香水のにおいか。
あれ?
でもいつも香水なんかつけてな……あ、そうか。
デートだから、張り切ってつけてきてくれたのか。
あー……、なんか胸がきゅうきゅうする。
ここが外じゃなかったらキス、してたのに。
「理人さん」
「んっ?」
「キス、したいです」
「……うん、俺も」
佐藤くんが歩く速さを緩めてくれて、微かに腕が触れ合う。
俺と佐藤くんの吐く息が、白く淡い煙のように交じり合い、空気の上を漂った。
ドキドキする。
でも、安心する。
キスはできないし、手も繋げないけれど。
佐藤くんが俺と同じ気持ちでいてくれたことが、ただ、嬉しかった。
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