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閑話:午前10時のアクアリウム (4)

まるで、本当に海の底を歩いているようだ。 水族館の入り口を潜ってたった5歩進んだだけで、そこはもう別世界だった。 上から差し込む光が揺れる水の動きに反射して、宝石のように煌めいている。 どこまで続いているのかわからないくらい広い水槽の中を、3頭のバンドウイルカが泳いでいた。 時にはじゃれ合うように、時には競い合うように、時にはくるくると踊るように。 本当に楽しそうに、水の中を、舞うように。 「理人さ……」 「俺、魚に生まれ変わりたい」 「えっ?」 「こんな綺麗な世界でずっと泳いでいられるなら、人間なんていつでもやめる」 こんな風に優雅に、自然に溶け込むように生きていけるなら―― 水槽の前で動けなくなっていた俺の耳に、柔らかな苦笑が届いた。 「あ、ごめん」 「いえ、全然。理人さんって自然好きですよね」 「好きっていうか、なんかうまく言えないけど……」 「はい」 「好き、だな」 佐藤くんの大きな手が、俺の髪を優しく乱した。 「どうしますか?イルカショーもあるみたいですけど」 「あー……まずは、いろいろ見たい」 「じゃあ順序どおりに行きましょうか」 「うん!あ、亀!亀がいる!」 「え?あ、ちょっと、理人さん!」 佐藤くんが、慌てて俺を追いかけてくる。 もう、と文句を言いかけて、でもすぐに目の前を横切った大きな亀の姿に目が釘付けになった。 その行き先を、じっと見つめる。 そうしたら亀が思いがけずUターンしてこっちに向かってきて、ふたりして、おおお、なんて声を上げてしまった。 亀は、そんな俺たちをあしらうように目の前で回転してみせてから、遠くに泳いでいった。 「すごい迫力でしたね」 「うん」 「次、行きましょうか」 「うん!」 佐藤くんと一緒にいると、時間があっという間に過ぎていく。 チンアナゴのイントネーションについて言い合ったり。 カクレクマノミを見つけて、ニモだニモだと騒いだり。 タカアシガニを見て、思わずヨダレを垂らしたり。 大人気なくはしゃいでしまう自分が恥ずかしくて、でも、そんな時間がどうしようもなく楽しかった。 「すごい、魚の渦だ」 「だな」 「はぐれるやつとか、いないんですかね?」 「そういうやつがアンチョビになるんだろ」 「え、まさか!」 巨大な塊を作って泳ぐ鰯の大群が、奇妙に形を変えながらそれでもお互いから離れない。 鰯を見るフリをしながら、俺は、水槽に映る佐藤くんの影を見ていた。 真っ直ぐな瞳が、蠢く銀色の群れを見ている。 この闇の中なら、少しくらいいいんじゃないだろうか。 無防備にぶら下がっていた手に触れると、佐藤くんの肩がピクリといかった。 「理人さん……?」 「ちょっと、だけ」 「……はい」 きゅっと優しく握られた手が、とても熱かった。

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