191 / 492
閑話:午前10時のアクアリウム (4)
まるで、本当に海の底を歩いているようだ。
水族館の入り口を潜ってたった5歩進んだだけで、そこはもう別世界だった。
上から差し込む光が揺れる水の動きに反射して、宝石のように煌めいている。
どこまで続いているのかわからないくらい広い水槽の中を、3頭のバンドウイルカが泳いでいた。
時にはじゃれ合うように、時には競い合うように、時にはくるくると踊るように。
本当に楽しそうに、水の中を、舞うように。
「理人さ……」
「俺、魚に生まれ変わりたい」
「えっ?」
「こんな綺麗な世界でずっと泳いでいられるなら、人間なんていつでもやめる」
こんな風に優雅に、自然に溶け込むように生きていけるなら――
水槽の前で動けなくなっていた俺の耳に、柔らかな苦笑が届いた。
「あ、ごめん」
「いえ、全然。理人さんって自然好きですよね」
「好きっていうか、なんかうまく言えないけど……」
「はい」
「好き、だな」
佐藤くんの大きな手が、俺の髪を優しく乱した。
「どうしますか?イルカショーもあるみたいですけど」
「あー……まずは、いろいろ見たい」
「じゃあ順序どおりに行きましょうか」
「うん!あ、亀!亀がいる!」
「え?あ、ちょっと、理人さん!」
佐藤くんが、慌てて俺を追いかけてくる。
もう、と文句を言いかけて、でもすぐに目の前を横切った大きな亀の姿に目が釘付けになった。
その行き先を、じっと見つめる。
そうしたら亀が思いがけずUターンしてこっちに向かってきて、ふたりして、おおお、なんて声を上げてしまった。
亀は、そんな俺たちをあしらうように目の前で回転してみせてから、遠くに泳いでいった。
「すごい迫力でしたね」
「うん」
「次、行きましょうか」
「うん!」
佐藤くんと一緒にいると、時間があっという間に過ぎていく。
チンアナゴのイントネーションについて言い合ったり。
カクレクマノミを見つけて、ニモだニモだと騒いだり。
タカアシガニを見て、思わずヨダレを垂らしたり。
大人気なくはしゃいでしまう自分が恥ずかしくて、でも、そんな時間がどうしようもなく楽しかった。
「すごい、魚の渦だ」
「だな」
「はぐれるやつとか、いないんですかね?」
「そういうやつがアンチョビになるんだろ」
「え、まさか!」
巨大な塊を作って泳ぐ鰯の大群が、奇妙に形を変えながらそれでもお互いから離れない。
鰯を見るフリをしながら、俺は、水槽に映る佐藤くんの影を見ていた。
真っ直ぐな瞳が、蠢く銀色の群れを見ている。
この闇の中なら、少しくらいいいんじゃないだろうか。
無防備にぶら下がっていた手に触れると、佐藤くんの肩がピクリといかった。
「理人さん……?」
「ちょっと、だけ」
「……はい」
きゅっと優しく握られた手が、とても熱かった。
ともだちにシェアしよう!