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閑話:午前10時のアクアリウム (6)
クラゲコーナーを出て、佐藤くんに断ってトイレに立ち寄る。
用を足して出てくると、同じように連れを待っているたくさんの人だかりの向こう側に、ぽこんと飛び出た佐藤くんの頭が見えた。
こういう時、背が高いと見失わなくていい。
「佐藤く――」
「佐藤くん?」
俺の声は、唐突に混じった高い声にかき消された。
俯いていた佐藤くんが、ビクリと身体を揺らして顔を上げる。
その視線を辿ると、真っ白なベレー帽をかぶった小柄な女の子が立っていた。
誰だろう。
佐藤くんの友達だろうか。
でも、俺にも見覚えがある……ような気がする。
「宮下さん!」
「あ、やっぱり佐藤くんだった。背が高いから目立つね」
「そ、そうですか。お、お疲れ様です」
「お疲れ様。彼女とデート?」
「え!?あ、いや、まあ……宮下さんは?」
「私は友達と。今、イルカショー見てきたとこ」
「イルカ……」
ちょうどその時、次のイルカショーの時間を案内する館内放送が流れ始め、会話が聞こえなくなった。
音声がなくなると、ふたりがなんだか遠くに行ってしまったような感覚に陥る。
宮下さんと呼ばれた女の子は、常に笑顔で楽しそうだ。
そんな彼女を見下ろす佐藤くんの瞳も、とても穏やかだった。
そうか。
俺と出会うまでの佐藤くんは、こんな風に女の子と付き合ってきたのか。
そんなことを思ってしまって、なんとなく落ち込んだ。
「理人さん?」
「ひぇっ!」
急に肩を叩かれて飛び上がる。
ドクドク跳ねる胸元を押さえながら振り返ると、佐藤くんがさもおかしそうに笑っていた。
「ひぇっ!……ってなんですか」
「あ、いや、ごめん。まだ話し中かと思ってた」
「ああ……見てました?」
佐藤くんの表情がバツの悪そうなものに変わり、おさまりかけていた心臓の鼓動がまた速くなる。
俺には見られたくなかった、ということだろうか。
「バイトの先輩なんですけど、たまたま友達と来てたらしくて」
「あー……だからか」
「え?」
「見覚えある人だな、と思ってた」
佐藤くんの仕事の先輩、ということは俺も顔を合わせたことが何度もあるはずだ。
そして、佐藤くんはほぼ毎日、彼女と一緒にいる。
「……あのさ」
「はい?」
「その先輩って、佐藤くんのなんなんだよ?」
「えっ……?」
「いくら佐藤くんが背が高いからってこの人混みの中で佐藤くんに気づくなんて、佐藤くんのことが特別だからじゃないのか?」
佐藤くんの目が、まん丸になる。
「それに、佐藤くんが誕生日プレゼントもらったのって彼女だよな?仕事の後輩だからってそこまでするか?それってもう佐藤くんのことが好きってことだろ?」
まずい。
かっこ悪い。
ものすごく嫉妬してしまっている。
黙りたい。
自分をぶん殴りたい。
今すぐ声帯を引っこ抜きたい。
でも。
止められない。
「佐藤くんかっこいいからモテるのはしょうがないんだろうけど、でも今日は俺と一緒にいるんだし、なにもかわいい女の子と楽しそうにおしゃべりするところ見せつけなくても……」
「理人さん」
唐突に佐藤くんの硬い声が空気を切り裂き、俺はようやく口を噤んだ。
とめどなく溢れ続けていた言葉が止まってホッとした反面、俺を見つめる佐藤くんの揺れる瞳に心を乱される。
「な、なんだよ?」
「そんなかわいいことばっかり言ってると今すぐトイレに連れ込んでめちゃくちゃにしてやりたくなるんでやめてください」
「なっ……なっ!?」
「宮下さんには付き合ってる人がいるの最初から知られてますし、さっきは、デートなんでしょ!?……ってからかわれてただけです」
「デート……」
「そう、デートです。ってちょっと理人さん、なんで初めて知った、みたいな顔なんですか。俺、ちゃんと言ったでしょう?」
「そう、だな」
「はい」
「……」
そうじゃないか。
そうじゃないか!
俺たちは今、デートしているんだ。
佐藤くんは、俺とデートしている。
それなのに。
それなのになんでこんな……!
「理人さん?」
「ごめん、今の、全部忘れて。今すぐ」
思わず両手で顔を覆うと、くすりと柔らかな笑いが漏れる気配がして、その笑いよりもっと柔らかなリズムで、ポンポンと頭を撫でられた。
ああくそ。
なにやってんだ、俺は。
恥ずかしい!
「なんで俺たち、今水族館になんているんでしょうね?」
「えっ?」
「だって、キスできない」
顔を上げると、佐藤くんの熱を帯びた瞳が俺をじっと見下ろしていた。
思わず、すぐそこのトイレ入ればできるんじゃないか、なんて口走ってしまいそうになる。
コクリと喉を鳴らすと、佐藤くんがサッと手を戻した。
「ま、それは夜のお楽しみ、ってことで。行きますか?」
「ど、こに?」
「イルカショー。ものすごく見応えあるらしいですよ」
「……うん」
行き先がトイレじゃなくてちょっとがっかりした、なんて言ったら、笑われるだろうか。
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