194 / 492

閑話:午前10時のアクアリウム (7)

イルカショーの会場はちょっとしたスタジアムになっていて、とにかく人が溢れていた。 小さな男の子を連れた年配の男性とぶつかってしまい、お互いに頭を下げて謝罪する。 それに気づいた佐藤くんが後ろを振り返って、困ったように肩をすくめた。 「すごい人ですね」 「日曜だからな」 「スプラッシュゾーンはもう無理かあ……」 「なに、濡れたかったの?」 「どうせなら」 やっぱり、佐藤くんにはMっ気があるんだと思う。 いくら晴れて太陽が出ているとはいえ、冬のこんな寒い中、海水まみれになりたいなんて。 結局俺たちは、真ん中より少し左寄りの席を見つけ、そこに腰を下ろした。 プラスチックの椅子が思ったより冷えていて身震いすると、佐藤くんが一旦は返していた黒いマフラーを首に巻いてくれる。 また、ふわり、と佐藤くんの香りが漂ってきて、俺の頬を熱くさせた。 「椅子が小さいな……」 「佐藤くんがでかいんだろ」 佐藤くんが、居心地悪そうにもぞもぞ動く。 しばらくしてようやくいい角度を見つけたのか、後ろの人と「見えますか?」「大丈夫ですよ」なんてやり取りをしてから、俺に向き直った。 「ほんとはもうちょっと近くで見たかったんですけど、モニターもあるし十分ですね」 「うん。イルカショーなんて久しぶりだな。まあ、水族館自体がそうなんだけど」 「俺もです。あ、始まりますよ」 流れていた緩やかなクラシック音楽が途切れたかと思うと、今度はロック調の音楽が大音量でスピーカーを揺らし始めた。 大きな拍手を受けながら、イルカのトレーナーたちが登場する。 「こんにちはー」 「こんにちはー」 「あれ、声が小さいなあ。もっと出るよね?こんにちはー!」 「こーんにちはー!」 大人も子供も一体になって、その非日常の空間を楽しむ様子がどこか懐かしい。 隣を見ると、佐藤くんも目をキラキラさせていた。 3頭のイルカたちはみんなそろって頭がよく、またよく躾けられてもいて、その一挙一動に観客全体が声を上げた。 佐藤くんも、おおっ、とか、すっげー、とか言いながら、くるくるとその表情を変えている。 思わずイルカそっちのけで見入っていると、佐藤くんがふと振り返って俺を見た。 「理人さん?つまんない……?」 「まさか!佐藤くんの反応がかわいいから、つい見ちゃってた」 佐藤くんの頬が、ほんのり桃色に染まる。 そんな反応もかわいいな、なんて暢気なことを考えていたら、突然佐藤くんの長い腕が伸びてきて、顔をぎゅむっと挟みこまれた。 そして、至近距離に近づく佐藤くんの顔。 「んんっ!?」 佐藤くんの唇は、ぐっと押し付けるように俺の唇を塞ぐと、ゆっくりと離れていった。 「おい!こんなとこでっ……」 「大丈夫。みんなイルカしか見てませんよ」 あまりにシレッと言われ、怒る気が一気に失せる。 「佐藤くんてたまにすごいよな……」 「惚れました?」 「……うるさい」 今度は俺が佐藤くんの唇を塞いだ。 惚れた?じゃないんだよ。 もうとっくの前から、俺はお前に惚れてるんだ。

ともだちにシェアしよう!