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5ー1:午後0時の乱 (8)
吐く息が真っ白だ。
日本海側では大雪になっているらしい今夜、太平洋側のこちらでは雪の影はまったくなかったけれど、冷たい空気が分厚いコートをすり抜けてくる。
夜空の下にぼんやりと浮かぶ三階建てのアパートを見上げると、頭の中がふわふわと揺れた。
塗装が禿げて金属がむき出しになった階段を、一段ずつ上る。
カン、カン、と高い音が闇の中に響いて溶けた。
360度を2回分回転し、3階の廊下にたどり着いた。
僅かに乱れた息を、深呼吸して整える。
吐き出した半透明の霞を完全に消えるまで見送って視線を上げると、廊下の真ん中あたりに大きな黒い塊が見えた。
302号室――俺の部屋の扉の前に、うずくまるようにして誰かが膝を抱えて座っている。
その長い腕の間から見覚えのある色の薄い髪がはみ出ていて、俺の胸が高鳴った。
足を踏み出すと、靴底が擦れて微かな音を紡ぎ出しす。
ピクリと跳ねた塊がゆっくりと解かれ、しかめっ面が顔を出した。
「……遅い」
唇をへの字に曲げて、理人さんが俺を見上げる。
なんでだろう。
会えて嬉しいはずなのに、嬉しくてたまらないはずなのに、胸が――痛い。
「ここで何してるんですか」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
まさか、別れ話をしに来たんですか。
零れそうになった言葉を咄嗟に飲み込む。
理人さんは、僅かに目を見開いてから唇を尖らせた。
「LIME、したんだけど」
「えっ……」
「……」
「えぇっ!?」
コートのポケットから慌ててスマホを取り出すと、ロック画面がクリームソーダのアイコン
で埋め尽くされていた。
『あ』
『会いたい』
『家にいる?』
『やっぱり佐藤くん家行っていい?』
『無視するなよ』
『もういい、今から行く』
「うわ……」
なんで。
いつも自分からLIMEなんてしないくせに。
なんで、今夜に限って。
「ご、ごめんなさい!俺、気づかなくてっ……」
「お酒のにおいがする」
「え?」
「飲みに行ってたのか」
「あ、はい」
「誰と?」
「えっ……ひとりで、です」
今日はそのまま家に帰りたくなくて、ふらりと居酒屋に立ち寄った。
最初は一杯だけ飲んだら出るつもりだったけれど、理人さんとあの男のことを考え始めたら頭の中がグルグルし始めて、結局次も頼んでしまった。
それからまた次も注文してしまって、腹も減っていたし夕飯もついでに済ませてしまえ、と軽く食事までしていたら、いつの間にかこんな時間になっていた。
まさか理人さんが俺を待ってくれているなんて思っていなかったから、スマホはずっとポケットに入れたまま。
「……ほんとに?」
「えっ?」
「ほんとにひとりで?」
「あ、はい。ほんと、です」
「……ふぅん」
そっぽを向いてしまった理人さんを改めて見下ろすと、アーモンド型の瞳がゆらゆら揺れていた。
よく見ると、鼻の頭が真っ赤になっている。
山型の唇は紫色に変わっているし……いったいいつからここにいたんだ。
「理人さんこそ、飲み会じゃなかったんですか?」
「あー……だった」
「いいんですか?」
あの男と一緒じゃなくて。
「……なんだよ」
「えっ?」
「佐藤くんに会いたかったから抜けて来たのに。もういい、帰る!」
突然、理人さんが突然勢いよく立ち上がった。
ぶるりと大きく身震いして、濡れた瞳で俺を睨んで、踵を返す。
――佐藤くんに会いたかったから抜けてきたのに。
ああもう。
ずるい。
そんなかわいいこと、言われたら。
待ち伏せなんて、かわいいことされたら。
なんか、もう。
たまらなくなって。
いろんなことが、どうでもよくなるじゃないか。
「理人さん!」
「っ」
「帰すわけ、ないでしょ」
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