210 / 492

5ー1:午後0時の乱 (11)

「どうぞ」 「ありがとう」 こたつ布団に埋もれた理人さんが、淹れたてのココアを啜る。 一度、あちっ、と唇を離すと、ふぅふぅと息を吹きかけて、ふた口目をゆっくり飲んだ。 慎重にカップをテープルに置き、キョロキョロと辺りを見回す。 首から上だけが布団から生えているようで、なんだか滑稽だ。 理人さんはひとしきり部屋を見回したあと、向かいの俺を見て微笑んだ。 「どうしたんですか?」 「佐藤くん家だなあ、と思って。ひとり暮らしなんだよな?」 「はい。元は兄貴とふたりで住んでたんですけどね」 「ふぅん」 理人さんがもぞもぞ動いて、左腕だけを布団から出す。 そろそろとマグカップを引き寄せると、背中を丸めて唇を近づけた。 カップを傾けてチビチビ啜る姿がかわいい。 「理人さん」 「んっ?」 「寒くないですか?」 ようやく暖房が効き始めて外気よりは幾分か暖かくはなったけれど、それでも部屋の空気はまだ冷たい。 せっかくシャワーでほどよく温まった身体を冷やして風邪でも引いたら大変だ。 「大丈夫。こたつ、あったかい」 「こたつ好きなんですか?」 「好き、っていうより憧れだな。家になかったから」 「そうなんですか」 「ん」 理人さんは、顎をテーブルの上に乗せた。 その目尻はトロンと下がっていて、口元は緩やかな弧を描いている。 本当に幸せそうで、まるでホームドラマのワンシーンのようだ。 俺の実家では毎年冬と言えばこたつだった。 両親と兄弟4人が入るにはどう考えてもサイズ感がおかしいこたつしかなくて、家長の父さんが父親特権を行使して早々に入ってしまうと、残る場所は3人分。 さらに母さんまでもが母親特権を行使してしまえば、残る切符はたったの2枚。 俺たち兄弟はいつもその残った『入こたつ券』を巡って激しい争奪戦を繰り広げていた。 収拾がつかなくなると最終的に母さんの雷が落ちて、全員が平等に権利を失う。 それが佐藤家の冬の風物詩だった。 今でも実家に帰ればそれに似たことが起こるし、さすがに取っ組み合いの喧嘩に発展することはもうないけれど、どこか懐かしい感覚が嬉しくもあった。 賑やか うるさい。 やかましい。 うんざり。 でも、楽しい。 それが俺の日常だった。 理人さんには、兄弟がいない。 家では、子供は自分ひとり。 どんな感覚なんだろう。 生まれた瞬間から兄貴たちにこねくり回されて育った俺には、まったく想像がつかない。 理人さんは、昔の話を滅多にしない。 でも、少しだけ話してくれたことがあった。 理人さんのマンションには3つの部屋があり、そのうちのひとつを理人さんは寝室として使っている。 ふたつめの部屋には、デスクと本棚を置いて書斎のように見せていた。 そして最後の部屋を、理人さんは『もういない人たちの部屋』と呼ぶ。 その部屋の奥にはシンプルな祭壇があり、写真立てがいくつかと一輪の花が飾られていた。 理人さんは一輪挿しの水を変えながら、ぽつりぽつりと話してくれた。 父方の祖父母は理人さんが生まれる前にすでに他界していて、母方の祖父母も中学に入学する頃にはどちらも亡くなっていた。 両親もひとりっ子同士の結婚だったから彼らが亡くなって、理人さんはひとりになった。 ひとりで生きる。 それがどれだけ大変なことなのか。 どれだけ辛いことなのか。 どれだけ淋しいことなのか、俺にはわからない。 俺には、声を上げてれば応えてくれる両親がいる。 助けてくれる兄弟がいる。 見守ってくれている家族がいる。 理人さんにも、友達がいる。 会社の人たちがいる。 理人さんが困っていたら、みんな全力で理人さんに手を貸すはずだ。 それでもきっと、理人さんの孤独が消えることはないだろう。 たったひとりで過ごす夜、理人さんはどんなことを思っていたんだろう。 泣いていたんだろうか。 我慢していたんだろうか。 溢れそうになる嗚咽を、必死に堪えていたんだろうか。 誰にも拭われることのない涙を、静かに流していたんだろうか。 それとも。 あの男に、慰めてられていたんだろうか。 俺と出会うまでしばらくの間、理人さんは『そういう相手』はいなかったと言っていた。 つまり、それまでは相手がいた。 そしてその相手は、恐らくあの男――木瀬航生。 理人さんは、木瀬とどんな毎日を過ごしていたんだろう。

ともだちにシェアしよう!