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5ー1:午後0時の乱 (13)

「理人さん」 「んー?」 「木瀬航生……さん、って誰ですか?」 気持ち良さそうに揺れていた理人さんの頭が、ぴたりとその動きを止めた。 「なんで……」 「おやつ時にきて、名刺もらいました」 「名刺……?」 「かっこいい人、ですよね」 理人さんは、皺だらけになった紙切れをじっと見つめた。 でもすぐに視線を逸らして、またテーブルに顎を乗せる。 「航生は俺の会社の同期……で、大学の先輩……で、高校の……先輩」 「先輩?同期なのに?」 「あっちは院卒だから」 「そう、ですか」 好きだった人。 昔付き合っていた人。 元恋人。 元カレ。 期待していた言葉は、まったく出てこない。 理人さんの中ではもう清算された関係だから言うまでもない、ということ? それとも、俺に遠慮している? 「もしかして……」 俺には言えない何かがあるんですか? 「異動ですか?」 「あー、うん。財務課……って、俺のこっち側の課なんだけど、そこの課長になるらしい」 理人さんが、自分の右側を視線で示しながら言った。 隣ってそういう意味か。 だとすると理人さんは、本当にこれから毎日あいつと顔を合わせる。 それだけじゃない。 頭を撫でられて、額を合わせられて……抱きしめられる、のかもしれない。 「仲、良いんですね」 「……そうか?」 「そうですよ」 だって今まで、理人さんにあんなことする人はいなかった。 「まあ、仲が良いかどうかは置いといても、尊敬はしてる」 「尊敬?」 「あいつ、2年前まで会社の留学制度使ってアメリカで勉強してたんだ。全社員のうちひとりだけっていう狭き門に応募して受かったんだよ」 「……」 「仕事のやり方も考え方も俺とは全然ちがうタイプだけど、だからこそ一緒に仕事するだけで学ぶことは多いし……俺にとっては、友達だけど目指すべき目標でもある人、って感じだな」 初めてだ。 理人さんが、誰かのことをこんな風に誇らしげに話すのは。 理人さんが尊敬している人。 目指すべき人。 俺はそんな男に、勝負を挑まれているのか――? 「その……」 「ん?」 「あ、えっと……理人さんは異動とかないんですか?」 「ある」 「えっ」 「あーでも、あったとしてもそうそう遠くへ送られることはない……と思う」 「そうなんですか……?」 「うちの会社はある程度融通きかせてくれるからな。東京は行きたくなくて希望出してないし、大阪は希望者多いから回ってくることもないだろ。静岡とかならここから通うし」 「……なんで」 「え?」 「なんで東京に希望出さないんですか?」 理人さんが、目を丸くする。 「あー……それはまあ、名古屋(こっち)にいたい理由がある、から」 「理由って……?」 もしかして、あの男が戻ってきたからですか。 あの男とヨリが戻ったからですか。 最初から、俺はあの男がいない間の穴埋めだったんですか。 あの男の代わりだったんですか。 ……だめだ。 聞きたいことはどんどん増えてくるのに、口にできない。 理人さんから肯定の言葉が返ってくるのが怖くて、なにも言えない。 声にならない思いばかりが喉の奥に飲み込まれて、頭の奥の方を突き刺してくる。 痛い。 「佐藤くん」 気がつくと、理人さんの顔が至近距離にあった。 「理人さん……?」 「入れて」 言うが否やこたつ布団をベロンとめくると、理人さんは俺とテーブルの隙間に強引に割り入ってきた。 そして俺の胡座の上にストンと腰を下ろと、思わず上げていた俺の両腕を掴み自分の身体に巻きつける。 「あの……?」 「好きだよ」 ドクン、と心臓が大きな鼓動を打った。 「大好き」 大切そうに言葉を紡ぎ出し、理人さんが腹に回った俺の手を取り自分の頬に擦り付ける。 肌触りを堪能するようにすりすりして、俺の手のひらで顔を挟み込んだ。 かわいい。 嬉しい。 たまらない。 それなのに。 心の中が、ざわめく。 なんで? どうして? そんなことばかりが頭の中を行ったり来たりする。 だって、こんなこと。 いつもなら、絶対にしない。 「……どうしたんですか?」 「んー……ちょっと、な」 「ちょっと、って?」 「なんにもない。ただ……」 「ただ……?」 「改めて思ったんだ。佐藤くんを好きだ、って」 理人さんがその長い指をすっぽりと覆ってしまった俺のスウェットに顔を寄せ、スンスン鼻を鳴らした。 「佐藤くんのにおいがする」 ……ああ。 やっぱりだめだ。 返すわけにはいかない。 あの男にだって。 ほかの誰にだって。 理人さんは。 「今日、泊まってもい……んんっ!」 理人さんは、誰にも渡さない。

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