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5-3:午後10時の解氷 (3)
寝室の扉を静かに閉めて、長い息を吐く。
足音を極力殺してリビングに向かうと、ソファに浅く腰掛けていた木瀬さんが顔を上げた。
「……理人は?」
「寝ました」
「……」
「熱冷ましはなんとか飲んでくれたんで、しばらくしたら落ち着くと思います」
「そ、か」
「木瀬さん?」
「捨てた……か」
「……」
「そうだよ、な。そうだよ、なあ……?」
木瀬さんの声は、震えていた。
不思議だった。
この人の声が嫌いでしょうがなかったのに。
時には憎しみすら抱いていたのに。
今はただ、その低い声に乗って漂ってくる痛みが――辛い。
「……どーも」
差し出したマグカップを受け取り、木瀬さんは鼻から短い息を吐いた。
隣に座るのも気が引けて、キッチンカウンターにもたれる。
そんな俺の姿を横目で見てから、木瀬さんは何も映していないテレビ画面を見つめた。
カチコチ、と時が刻まれる音だけが、俺たちの間を規則正しく横切っていく。
やがて、その沈黙を破るように、木瀬さんがコーヒーをひと口啜った。
「理人がなんでカルボナーラばっか食うか知ってる?」
「……いえ」
「カルボナーラはさ、あいつにとってはおふくろの味ってやつなんだよ」
「……」
「理人のお袋さん、料理へったくそでさー。俺も何回か食わされたけど、あれはひどいなんてもんじゃなかった」
木瀬さんの目が、遠くのなにかを慈しむように細くなる。
喉の奥でくつくつと小さく笑うと、木瀬さんはまた表情を無に戻した。
「ただ唯一、親父さんの好物だったカルボナーラだけはそれなりに作れたんだと」
「……」
「両親死んだあと、あいつしばらくなにも食えなくて……なに食わせても吐くから、何なら食えるんだよ!って、問い詰めたらさ。お袋さんのカルボナーラが食いたいって泣くから、見よう見まねで作って……そしたらまんまとツボったらしくて」
「……」
「それから毎週月水金と通い妻?みたいなことさせられてさー」
そうか。
そうだったのか。
だから、理人さんはいつも月水金にカルボナーラを買いに来ていたのか。
母親との思い出を追いかけて。
木瀬さんとの思い出を追いかけて。
「そのうち満足するか飽きるかして終わるだろうと思ってたのに、まさかずっと強請られるなんて思わねえじゃん?」
「……身体にもあんまり良くないですしね」
「プハッ!そうそう、コレステロール?右肩上がりしそうじゃん」
「あ、それ、ほかの社員さんにも言われてました」
「マジで!」
木瀬さんが、肩を揺らしながら笑う。
気づくと俺の頬も僅かに緩んでいた。
「でもさ、あいつのお願いってさ、ズルいんだよ」
「ズルい?」
「天涯孤独っていう不動のステータスがあるじゃん?だから俺がやらなきゃ誰がやるんだ、って思わせてくんの。ズルくない?」
「……確かに」
「だろ?」
木瀬さんは、黒いテレビ画面に映る自分の姿を困ったように眉を下げて見つめた。
しょうがないやつだな、お前は。
まるで、自分自身にそう言っているかのように。
「理人さんのこと、好きだったんですね」
ギョッとしたように俺を見てから、木瀬さんがまた肩を揺らす。
「アハッ!過去形で言う?露骨だな、ほんと!」
「あ……ご、ごめんなさい……!」
本当に、そんなつもりじゃなかった。
木瀬さんに対する対応心も、嫉妬心も、今はもう嘘のように消え去っている。
だから、そんなつもりじゃ。
「ハァー……君さ、もっと嫌なやつになれよ」
項垂れた俺に苦笑をよこしてから、木瀬さんはぽつりと言った。
「……好きだったよ」
「……」
「好きすぎて、ずっと『好きだ』って言えなかったくらい、好きだった」
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