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5-3:午後10時の解氷 (4)
「高校生のあいつ、見たことある?」
「……いえ」
「細くてちっちゃくてかわいくってさあ。俺のこと好き好きって丸出しでいつもなにか言いたそうに俺を見上げてくるくせに、絶対なにも言わねえの」
「……」
「あの頃のあいつは驚くほど純粋で……俺なんかが触ったら汚してしまいそうで、髪の毛一本でさえ怖くて触れられなかった」
木瀬さんの低い声が、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
静かな空間を漂うそれは、とても心地よく俺の耳に届いた。
「でも、あいつの両親が死んだ時、俺が守らなきゃ……って、思っちゃったんだよなあ」
柄じゃねえのに、と木瀬さんが自嘲する。
「でも、だんだん一緒にいるのが辛くなってきた。あいつはもう失いたくないものをすべて失ってて、だから自分の気持ちにまっすぐでいられて……でも俺にはまだ、失いたくないものが多すぎた」
「……」
「エッチしてても、あいつの顔、見てらんなくてさ」
「……」
「俺と一緒にいたって未来なんかねえのに、それでもかまわないって言われてる気がして、両親のこととか将来のこととか世間のこととか、結婚……とか。そういうことを考えてた自分が、いたたまれなくなった。だから……留学した」
「……」
「とにかく、理人と離れたかった」
木瀬さんは、すっかり冷めてしまったコーヒーをゆっくりと啜った。
「二年前に帰国することになってもわざと伝えなかった。それなのにあいつ、空港で待ってたんだよ」
「えっ」
「どっかの誰かに聞いたんだろうけど。ふつうは健気だな、って思うじゃん?でも俺は無性に腹が立って……だからそのままホテル連れてって抱いて……捨てた」
「……」
「本社に戻ることになった時も、なにも感じてなかった。もともと公私はキッチリ分けられるタイプだったし、大丈夫だと思ってた」
「……」
「でも、ダメだった」
「……」
「理人がキラッキラした目で君のこと見つめてるのを見て、悔しくなった。たった2年やそこらで俺のこと忘れんのか。そう思ったら、どうしても取り戻したくなった。自分が怖くて手放したくせに……勝手すぎて笑っちまうよな」
マグカップを持つ木瀬さんの手が、小さく震える。
木瀬さんの乾いた笑いが、俺の穏やかな心に優しく突き刺さった。
「……好きって、そんなものでしょ」
「え?」
「自分勝手で、理由なんてなくて、大切なのに、壊したくて」
「……」
「近づきたくて、離したくなくて、でも、近づきすぎるのが怖くてたまらない」
「……」
「それが……好きってことでしょ」
同じだった。
この人も、同じだったんだ。
理人さんのことが、好きで。
大好きで。
大切で。
大切だから、怖くて。
大切だから、一緒にいられなくなった。
「……プハッ!詩人じゃん?」
木瀬さんが大袈裟に噴き出して、右手で顔を覆う。
「マジ、勘弁……っ」
低い声が、しっとりと濡れていた。
「佐藤くん」
「……」
「俺のフライング歓迎会、覚えてる?」
「……はい」
「あの夜、俺、フラレたんだよ」
「えっ……?」
「幸せにしたい人ができたから、ってさ」
なんで?
どういうことだ?
理人さんが、木瀬さんをフッた……?
「でも、理人さんはまだ木瀬さんのことが好きで……」
うわ言のように溢れた言葉に、木瀬さんが顔全体で苦笑する。
「だから言ったんだよ。お前はなにも見えてねえ、って」
嘘。
嘘だ。
だって。
あの日は。
あの夜は。
――好きだよ。
――大好き。
――改めて思ったんだ。佐藤くんが好きだな、って。
ああ。
そうか。
そうだったのか。
ふたりは、あの夜にもう終わっていたんだ。
理人さんが、いつもならしない仕草で俺に甘えてきていたのも。
いつもは口に出さない言葉でその気持ちを伝えてくれていたのも。
木瀬さんが、ひとりの時には絶対に俺に話しかけてこなかったのも。
そういう、ことだったのか。
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