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5-3:午後10時の解氷 (9)
冬の朝は、とても気持ちがいい。
冷えた空気の中に太陽の暖かさを感じて、身体の芯の方にある細胞がじわじわと動き出すのを感じる。
ほうっと息を吐き出すと、輪郭だけがうっすらと白かった。
春は、もうすぐそこまで来ているらしい。
なんとなく高揚する気分のままに足を速めると、牛乳と小麦粉と卵がせめぎ合い、カサカサと白いビニール袋を鳴かせた。
もうすっかり見慣れたこげ茶色のマンションに続く角を曲がり、俺は、足を止めた。
ふたりの男が、マンションの前で向かい合っている。
こちらを向いているのは、パジャマの上に俺のスウェットを羽織った理人さん。
背中を向けている背の高い男性は、木瀬さん……だ。
俺は、咄嗟に背丈の低い木の陰に隠れた。
「鍵、返しとく」
「ん」
「カルボナーラ食った?」
「うん。変わらない味で美味かった。ありがとう」
木瀬さんの表情はまったく見えないけれど、理人さんの横顔はとても穏やかだ。
「航生先輩」
木瀬さんの背中が、僅かに強張る。
「先輩には、感謝してる。してもしきれないくらい。でも俺はもう、大丈夫だから」
「……先輩とか言うな」
「あ……ごめん」
「なにが違うんだ」
「え?」
「俺とあいつ、なにが違うんだよ?」
低音で紡ぎ出された問いに、心臓が高鳴る。
「佐藤くんは、俺に未来をくれる」
「未来?」
「俺の不安とか恐怖とか、ひとつずつ踏み潰して、一緒に歩いていく道を作ってくれる」
「……」
「っていうのは、実はほとんど後付け……なんだけど」
「後付け?」
「……かわいいんだ」
「かわいい?あいつが……?」
「うん。出会った時から、なんでだかかわいくてしかたない」
「……」
「かわいくて、好きで、愛しくて、大切で……だから、失いたくない」
ふたりの間を渡り歩いた柔らかな空気が俺の涙腺を刺激して、視界がぼやけた。
「……留学」
「え?」
「俺が留学なんてしなけりゃ、こんなことにならなかったのか」
「……」
「怖がらずに、逃げずにちゃんとお前と向き合ってたら、今でも俺たちは……」
「そう、かもしれないけど……きっと、いつかは壊れてたよ」
「……」
「あの時の俺には、航生しかいなかった。でもそんな自分を航生に背負わせる覚悟もなかった。逃げ出したのは、俺の方なんだよ」
理人さんの視線が斜め上を向き、まっすぐに木瀬さんを見据える。
その瞳には、やはり微塵の迷いもなかった。
「ハァー……もういい、わかった」
「航生?」
「俺も、最後の方は半分意地になってたからな」
「……」
「悪かったよ」
「俺も……ごめん」
スン、と鼻を鳴らした理人さんの頭を、木瀬さんの大きな手がこれでもかとかき混ぜる。
その腕を、理人さんの左手が躊躇いがちに掴んだ。
「こ、航生」
「ん?」
「こういうのは、もう……その、子供じゃないんだから……」
「……ふうううぅぅん?」
鼻から意味深な息をたっぷりと吐いて、木瀬さんがいきなりこちらを振り返った。
「おーい、そこの盗み聞き現行犯!」
「っ!」
ビクッと揺れた俺の身体が緑を揺らし、雑な音を立てる。
「逮捕されたくなかったら出てきな!」
まさか。
ずっと、バレてた……?
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