230 / 492

5-3:午後10時の解氷 (9)

冬の朝は、とても気持ちがいい。 冷えた空気の中に太陽の暖かさを感じて、身体の芯の方にある細胞がじわじわと動き出すのを感じる。 ほうっと息を吐き出すと、輪郭だけがうっすらと白かった。 春は、もうすぐそこまで来ているらしい。 なんとなく高揚する気分のままに足を速めると、牛乳と小麦粉と卵がせめぎ合い、カサカサと白いビニール袋を鳴かせた。 もうすっかり見慣れたこげ茶色のマンションに続く角を曲がり、俺は、足を止めた。 ふたりの男が、マンションの前で向かい合っている。 こちらを向いているのは、パジャマの上に俺のスウェットを羽織った理人さん。 背中を向けている背の高い男性は、木瀬さん……だ。 俺は、咄嗟に背丈の低い木の陰に隠れた。 「鍵、返しとく」 「ん」 「カルボナーラ食った?」 「うん。変わらない味で美味かった。ありがとう」 木瀬さんの表情はまったく見えないけれど、理人さんの横顔はとても穏やかだ。 「航生先輩」 木瀬さんの背中が、僅かに強張る。 「先輩には、感謝してる。してもしきれないくらい。でも俺はもう、大丈夫だから」 「……先輩とか言うな」 「あ……ごめん」 「なにが違うんだ」 「え?」 「俺とあいつ、なにが違うんだよ?」 低音で紡ぎ出された問いに、心臓が高鳴る。 「佐藤くんは、俺に未来をくれる」 「未来?」 「俺の不安とか恐怖とか、ひとつずつ踏み潰して、一緒に歩いていく道を作ってくれる」 「……」 「っていうのは、実はほとんど後付け……なんだけど」 「後付け?」 「……かわいいんだ」 「かわいい?あいつが……?」 「うん。出会った時から、なんでだかかわいくてしかたない」 「……」 「かわいくて、好きで、愛しくて、大切で……だから、失いたくない」 ふたりの間を渡り歩いた柔らかな空気が俺の涙腺を刺激して、視界がぼやけた。 「……留学」 「え?」 「俺が留学なんてしなけりゃ、こんなことにならなかったのか」 「……」 「怖がらずに、逃げずにちゃんとお前と向き合ってたら、今でも俺たちは……」 「そう、かもしれないけど……きっと、いつかは壊れてたよ」 「……」 「あの時の俺には、航生しかいなかった。でもそんな自分を航生に背負わせる覚悟もなかった。逃げ出したのは、俺の方なんだよ」 理人さんの視線が斜め上を向き、まっすぐに木瀬さんを見据える。 その瞳には、やはり微塵の迷いもなかった。 「ハァー……もういい、わかった」 「航生?」 「俺も、最後の方は半分意地になってたからな」 「……」 「悪かったよ」 「俺も……ごめん」 スン、と鼻を鳴らした理人さんの頭を、木瀬さんの大きな手がこれでもかとかき混ぜる。 その腕を、理人さんの左手が躊躇いがちに掴んだ。 「こ、航生」 「ん?」 「こういうのは、もう……その、子供じゃないんだから……」 「……ふうううぅぅん?」 鼻から意味深な息をたっぷりと吐いて、木瀬さんがいきなりこちらを振り返った。 「おーい、そこの盗み聞き現行犯!」 「っ!」 ビクッと揺れた俺の身体が緑を揺らし、雑な音を立てる。 「逮捕されたくなかったら出てきな!」 まさか。 ずっと、バレてた……?

ともだちにシェアしよう!