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閑話:午後7時のジェラシー (6)
ちょっとだけ待っててください。
佐藤くんがそう言い残して泥酔した女性を米俵のように担いで部屋の中に入っていってから、五分後。
さっき俺の鼻を消しかけた扉が、今度はゆっくりと開いた。
「お待たせしました。どうぞ」
少しだけはにかんだように眉を下げて、佐藤くんが俺の中へと促す。
まるでその穏やかな声音に操られるようにぎこちなく身体を動し、玄関に足を踏み入れた。
大きな黒い革靴の隣に、小さなベージュのパンプスが並んでいる。
「理人さん?」
「さっき、の……」
この靴の持ち主を、佐藤くんは『姉ちゃん』と呼んだ。
「姉です、俺の」
「でも……だって……佐藤くんは、四人兄弟で……末っ子、で……」
「上から、兄、姉、姉、俺、です。さっきのは瑠加。すぐ上の姉です」
「血が、繋がってる……?」
「プッ……はい。俺が知る限りでは」
あー……そうか。
だから雰囲気が似ていたのか。
「なんでそんな、正装してんの……?」
「今日は姉の友達の結婚式で」
「結婚式の、バイト?」
「あ、ええっと……生演奏、です」
「生、演奏?」
「これです」
佐藤くんの両手が、まるで鍵盤を叩くように動いた。
「佐藤くん、ピアノ弾けたの……か?」
「はい。これでも一応、音大のピアノ科出身なんで」
「音大……音大……?」
頭が、混乱している。
「理人さん」
「ん……ん?」
「コンビニのバイトじゃないっていうのは……隠してたわけじゃないんですけど、その、なんとなく照れくさくて。黙っててごめんなさい」
ピアノとか音大とかって柄じゃないでしょ。
そう言って僅かに頬を染めた佐藤くんが、固まっていた頭髪をガシガシと乱す。
柄じゃない?
そんなことない。
確かに驚いたけど、でもそれは知らなかったから……で。
いつもと違う後ろに流したようなヘアスタイルだって、タキシードだって、ものすごく似合ってる。
グランドピアノの前に座る佐藤くんは、きっと誰よりもかっこいい。
「……俺」
「理人さん……?」
「俺、佐藤くんがもう俺のこと嫌になったのか、と思って……」
「えっ……」
「やっぱり女の子が良くなったんだ、と思って……」
「……」
「そしたらすっごく悲しく、なって……」
いつかはそうなるかもしれないと思ってた。
その言葉に嘘はない。
でも、そうなってほしいと思っていたわけじゃ……ない。
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