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6ー1:午後11時の決意 (6)
ふ、と意識が浮上する。
闇に包まれた視界は、夢の世界との境界が曖昧だ。
すぐ隣にあるはずの体温を求めて腕を伸ばすと、そこにはただ冷たい布があるだけだった。
首をひねって、サイドボードを見る。
目を凝らすと、3つの目覚まし時計はすべて11時を指していた。
理人さんは、『もういない人たちの部屋』にいた。
祭壇の前に正座し、たった一本灯った蝋燭の揺れる炎を見つめている。
驚かせないよう静かに足を踏み入れ、理人さんの隣にゆっくりと腰を下ろした。
理人さんが俺を見上げ、口を尖らせてキスを強請ってくる。
俺は、静かに唇を合わせた。
「雪が、降ってた」
「雪……?」
「お葬式とか相続とか全部終わって……弁護士とか、名前も知らない遠い遠い親戚がみんないなくなって、本当にひとりになった日」
理人さんが、祭壇からひとつの写真立てを手に取った。
そこには、理人さんによく似た男性と女性がひとりずつ、幸せそうに手と手を取り合っている写真が飾られている。
「不思議だった。ひとりになった途端、急に見知らぬ人の家にいるような気がして怖くなった。ものすごく怖くて、いても経ってもいられなくて、外に飛び出した」
理人さんの声は、淡々としている。
「そしたら、雪が舞ってた。空は真っ青に晴れてたのに」
「風花ですね」
うん、と頷き、理人さんが目を細める。
「冷たい風の中舞い踊る雪がいっぱほっぺたにくっついて……でも指が追いつく頃にはもう溶けて、なくなってて……」
「……」
「おかしいんだ。次から次へと舞ってるのに、全然捕まえられない。よし今度こそ掴んでやるんだって思うのに、手を広げるとそこにはもうなにもない」
「……」
「それで、初めて気づいた。ああそうか、生きてるからか……って」
「……」
「俺は生きてて身体があったかいから、風花を捕まえられないんだ。父さんと母さんは冷たかった。そりゃそうか、死んじゃったんだもんなあ……置いてかれたなあ……って。その時やっと実感が湧いてきて……子どもみたいに泣いた」
「……」
「わあわあ声あげて、泣いた」
「理人さん……っ」
無力だ。
俺には、細い身体を力一杯抱きしめることしかできない。
「あー……ごめん、泣いてない」
苦笑混じりに零しやんわりと俺の身体を押し戻した理人さんの目は、両方とも乾いていた。
「ごめん、悲観的になってるわけじゃなくて……ただあの雪の日からずっと、俺はひとりで生きていくんだって思ってたんだ」
長く繊細な指が、俺の頬をそっとなぞる。
「理人さんはひとりじゃないでしょう?西園寺さんや、三枝さんや……木瀬さんだって」
「うん。でも、みんないずれ家族ができる。そうしたら、甘えてなんていられない」
「……」
「だから俺は、ずっとひとりだと思ってた」
「理人さん……」
「でも、佐藤くんに出会った」
泣いていない、と言っていた理人さんの瞳が揺れた。
「佐藤くんと出会って、好きになってもらって、こうして今一緒にいる。それが、すごく嬉しくて幸せだ。たぶんもう、一生分くらいの幸せをもらってる。だからもし……」
「……」
「もし……」
「理人さん?」
理人さんは、なにも言わなかった。
その代わりに、ゆっくりと深呼吸をした。
吸って。
吐いて。
もう一度、吸って……吐いた。
「佐藤くん、ご両親の好きなもの教えて」
「えっ」
「ご挨拶の手土産、なにがいいと思う?」
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