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6ー2:午前11時半の現実 (3)

玄関の引き戸には、鍵がかかっていた。 インターフォンに手を伸ばした俺の腕を、理人さんがそっと掴む。 「理人さん?」 「……ありがとう」 「え……?」 「今日、ここに連れてきてくれて本当にありがとう」 「って、まだ着いたばっかりですけど……」 「うん」 理人さんが、困ったように眉尻を下げた。 まるでもうここを去る気でいるかのように、瞳を潤ませる。 その理由が分からず思わず葉瑠兄を見やると、なにも言わずにただ理人さんを見つめてい た。 「佐藤くん」 「あ、はい」 「ひとつだけ、覚えておいてほしい」 「え……」 「今日、こうして佐藤くんの実家にお邪魔するって決めたのは俺だから」 「……」 「俺自身が、佐藤くんのご家族にご挨拶したくてここにいる。そのこと、忘れないで」 理人さんはもう一度儚げに微笑み、自らインターフォンを押した。 「神崎理人と申します。この度はお招きいただきありがとうございます」 「まあ、いらっしゃい!」 ダークグレーのスーツ姿で手本のようにお辞儀した理人さんを前に、母さんは目を輝かせた。 小走りで出てきた母さんに続いて、みんながぞろぞろと玄関に出てくる。 理人さんが顔をあげると、その中のひとり、次姉の瑠加(るか)が、 「あーっ!」 素っ頓狂な叫び声を上げた。 「嘘!嘘でしょ!?あたし、見たことある!会ったことあるよね!?」 「はい。その節は失礼しました」 ごめんなさい、と理人さんがはにかむと、瑠加の顔がトマトケチャップでも浴びたかのように真っ赤に染まった。 「英瑠!このうそつき!いたんじゃん、イケメン!」 「瑠加、理人くんを知ってるのか?」 「まさと?理人って言うの!?っていうか、葉瑠兄は知ってたの!?」 「ああ、俺の患者」 「えぇっ!?」 「瑠加とは、この間うちに泊まった時にすれ違ってさ」 「ああ、そういうことか」 「なによ、葉瑠兄!知ってたなら、教えてくれたって――」 「ちょっと!理人くんが困ってる」 葉瑠兄に突っかかろうとする瑠加を、長姉の瑠衣(るい)が宥めた。 「騒がしくてごめんなさいね」 「いえ。こういうの憧れます」 母さんと理人さんの間に、穏やかな空気が漂う。 俺はなんとなく安堵しつつ、理人さんに向き直った。 「理人さん、紹介します」 途端に、みんなが背筋を伸ばした。 「母と、上の姉の瑠衣、下の姉の瑠加……は、もう覚えたと思いますけど」 「ちょっと英瑠!」 「はいはい。で、葉瑠兄と、奥さんの未砂(みさ)さんと、姪の瑠未(るみ)ちゃん。それから……」 俺は、みんなの背後からゆっくりと現れた一家の長を視線で示した。 「父です」 「はじめまして。神崎理人と申しま――」 「聞いてたとおりの美男子だな」 「え……」 「その顔なら女性には不自由しないだろう」 「あ……」 「どうしてうちの英瑠なんだい?」 初夏の爽やかな風が吹き抜ける玄関が、一気に凍りついた。

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